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家康の散歩道(13.10.14)


10月14日(日) 晴れ

官舎発   0530

官舎から浜松城途中の道
(亀山トンネル)


浜松城公園内
(浜松市戦災被爆者慰霊碑)


慰霊碑の台座の猫


朝日の中の浜松城 0615


浜松城石垣の上からアクトタワー


家康の散歩道を歩くきっかけとなった説明板

浜松城跡
浜松城は、徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀
(げんき)元年(1570)六月に入城し、十七年間在城した。
東西600メートル、南北650メートルの規模で、南の東海
道に大手門が開き、東から西へ三之丸、ニ之丸、本丸、天守台
と連なり、順次高さを増す。ここは、その天守曲輪(くるわ)
の跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中
に老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよ
く知られている。石垣は、野づら積みと呼ばれる堅固な造りで、
古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されて
いる。                      浜松市



石垣の下の石蕗の花




普済寺  0630




普済寺
山号広沢山(こうたくさん)、曹洞宗、十五世紀の初め寒厳義
尹が開山、その後肥後国(熊本県)大慈寺からきた華蔵義曇が寒
厳禅師の遺志を継ぎ、東海の禅堂としてこの地に普済寺を建立
した。教派は十三派(四百六十カ寺)を数え華蔵和尚によって浜
松地方に禅宗が広められた。本尊釈迦牟尼佛。
由緒ある寺として徳川氏の保護をうけ、家康も客殿を寄進して
いる。寺域も広く、広沢の名にふさわしく水の澄んだ池があり、
月の名所としてもしられたが、今は雲夢橋が残るのみである。
戦災のため焼失し、昭和三十九年再建された。山内に北山稲荷
を祀る。                     浜松市



西来院  0650



西来院
曹洞宗、高松山と号し、寒巌十三派中月窓派と称した。月窓義
運禅師が正長元年(一四二八)に自力開創し、本尊は釈迦牟尼
仏。長藤の寺として親しまれている。
墓苑には徳川家康の正室築山御前の廟堂(月窟廟)をはじめ、
家康の異父弟松平源三郎家俊、江戸時代の浜松女流歌人杉浦
真崎、森繁子などの墓がある。
戦国乱世も悲劇の女性築山御前は天正七年(一五七九)佐鳴湖
畔におき数奇な運命のもとに散華した。三十八歳。法名は清池
院殿潭秋天禅定法尼。戦災のために焼失した廟堂は昭和五十三
年の四百年忌に復元された。
境内の森は、野鳥の楽園で、美しい景観を呈している。
                         浜松市




宗源院  0700



宗源院
山号を宝蔵山といい、曹洞宗、普済寺十三派の在天派に属する。
在天弘雲が十五世紀に開創した。本尊は虚空蔵菩薩・釈迦牟尼
佛・普賢菩薩。
静寂な山内には三方原合戦の際、家康の身代わりとして戦死し
た成瀬藤蔵正義、旗手として討死した外山小作正重の墓があり、
また浜松城主松平伊豆守信祝が娘多世姫のために建てたという
墓がある。寺の南東一帯に的場があり、徳川家康が在城当時こ
こで弓の稽古に励んだといわれる。             浜松市







途中、麒麟の象に出会う  0715


朝日に浴びた朝顔の花
「朝顔の朝の日浴びて若返り」


三謡公園 0730

三謡公園
昔、この辺りは大鱸(すずき)谷と呼ばれ、この谷を超えて入
野み通ずる山道を「うとう坂」「歌う坂」ともいわれた。この
谷あいに大きな池があり、何某という者この池に釣して遊び、
たいそう魚が釣れるのに夢中になってしまった。その間、連れ
てきた子供が居なくなったのに気づき、大声で呼び探したがわ
からなかった。
さてはこの池に住む怪しいもののしわざかと、刀をみってこの
池に飛び込み、恐れることなく水底深く潜った。そこへ恐ろし
いものがこの男めがけて出てきたので、そこを切りつけ、この
怪物を退治した。引き上げて見ると大きな鱸という魚で、この
腹を割いてみると子供がころげでて、ようやく手当ての甲斐あ
って行き返ったそうな。この鱸のいた頃は池も漫々たるもので、
たいそう深く、怪物異魚が住み、人の入れない所であったが、
いなくなると池も干上がって田になったという。   浜松市



秋祭の準備整う神社


蜆塚遺跡 0750




旧高山家住宅

この建物は、市内村櫛町で漁業・農業を営んできた高山家
の住宅として使われていたものである。同家は安政(1854〜
1860)のころ分家し、その時、堀江(今の館山寺町)から古い
建物を購入、移築したという。小規模な民家建築であるが、
これが江戸時代終わりごろ浜名湖東岸では標準的なすまい
であった。屋内は右手が土間、左手が前後2室の床上部分
で、四間取(田の字型)成立以前のかたちをとどめている。
(1980年、現在地に移築)


佐鳴湖公園 0810


佐鳴湖


コスモスを見ると疲れも飛びました。
「秋桜や足の疲れも無くなりぬ」


太刀洗の池 0820



太刀洗の池
太刀洗の池は、この南一〇メートル位のところにあった。昔は
このあたり一帯は藪におおわれ、約五十平方メートルほどの池
であった。徳川家康の正室は、今川義元の家臣関口刑部少輔義
慶の娘で、岡崎の築山にちなんで築山御前と呼ばれたが、政略
の犠牲となって、岡崎城から浜松城に向う途中、佐鳴湖岸小藪
で家康の家臣に殺害された。時に天正七年(一五七九)八月二十
九日、築山御前三十八歳であった。このとき血刀をこの池で洗
ったので、その水が涸れたが、延宝六年(一六七八)百年忌の法
要が行われてから清水にもどったという。築山御前は西来院に
葬られた。この谷一帯を御前谷という。       浜松市

官舎着 0900


まだ、駅周辺と犀ヶ崖周辺が残った。
午後、また歩く。

二代将軍秀忠の誕生井戸 1610





誕生井戸の由来
誕生井戸はここの西方約五十メートル位のところにあった。昔、
その一帯は旧城下であり家康の在城当時には下屋敷が構えられ
ていた。二代将軍徳川秀忠の生母は、家康の側室西郷の局で秀
忠の出産は同下屋敷でおこなわれた。
その時使われた産湯の井戸を誕生井戸という。その井戸は明治
の頃まで残っていたそうである。
また、ここの北方の誕生橋は秀忠の生まれた下屋敷が誕生屋敷
と呼ばれたことに因んでの命名である。       浜松市

東照宮 1630



元城町東照宮由緒
御祭神徳川家康公 事代主命 大国主命
明治維新後浜松藩代たりし旧幕臣井上八郎氏に依り明治十七年
元城町古城(旧曳馬城跡)に創建せられその管理祭祀を大日本
報徳社に委ねていたが昭和十一年その所有権が井上家より亦管
理権が大日本報徳社より大石力氏に引継がれ、その後元城町の
氏神として奉斎する事となり村社に列せられた昭和二十年戦災
により焼失せるも昭和三十四年に社殿手水社社務所等を再建し
今日に至る。

本多肥後守忠真碑 1650


犀ヶ崖 1650

犀ヶ崖(さいががけ)
犀ヶ崖と呼ばれる範囲は、はっきりしないが、この付近から下
流約四五〇メートルの間に、急な崖が連続している。この付近
では、幅約三〇メートル、両岸とも深さ一〇数メートルの絶壁
をなす。元亀三年(一五七二)一二月二十二日、徳川家康は、三
方原において武田信玄に一戦を挑んで敗け、浜松城に逃げ帰っ
たが、その夜犀ヶ崖付近で徳川方が、地理に暗い武田方を急襲
して、この崖に追い落としたと伝えられる。
崖上の宗円堂には、この戦による両軍の死者の霊が祀られてお
り、その霊を慰めるため、毎年遠州大念佛が行われる。静岡県
史跡                       浜松市

句碑
<犀ヶ崖>
岩角に兜くだけて椿かな 蓼太


夏目次郎左衛門吉信旌忠碑 1655


官舎着 1730
1箇所分らない所があり、ここに載せていない。
これも、まだ続くと言う事にしたい。