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神との対話@
 ニール・ドナルド・ウォルシュ 吉田利子訳 サンマーク出版


第1章
人生は、自分が何者であるか思い出すため、創りなおすためにある。
人生は学校ではない。学校は知りたいことを知るために行くところだ。
人生はすでに知っていることを体験する機会だ。

1-1 わたしはすべての者に、つねに語りかけている。問題は、誰に語りかけるではなく、誰が聞こうとするか、ではないか?
1-2 感情は魂の言葉だ。最も深い感情のなかに、最も高い真実が隠されている。
1-3 コミュニケーションの手段として、感情、思考、経験そして言葉を使う。
わたしのメッセージはつねに、あなたの最高の考え、最もくもりのない言葉、最も偉大な感情である。それ以外は別の源から生じている。そして、最高の考えには、必ず喜びがある。くもりのない言葉には真実が含まれている。最も偉大な感情、それは愛である。
1-4 すべての人は特別であり、すべての時は黄金である。
1-5 自分の感情に耳を傾けなさい。自分の経験に耳を傾けなさい。そのどれかが、教師に教えられたことや本で読んだことと違っていたら、言葉のほうを忘れなさい。言葉は真実の伝達手段として、いちばんあてにならない。
1-6 あなたは求めるものを手に入れられないし、欲するものを得ることはできない。求めるというのは、自分にないと言い切ることであり、欲すると言えば、まさにそのこと−−欲する−−を現実に体験することになる。したがって、正しい祈りとは、求めたりすがったりすることではなく、感謝である。
現実に体験したいと考えることを前もって神に感謝するというのは、願いがかなうと認めることだ・・・
感謝とは神を信頼することだ。求めるより前に神が応えてくれると認めることだから。
1-8 どんな祈りもかなえられる。祈りとは、これが現実ですと認めることだから。そして、どんな祈りも、どんな考えや思い、感情も創造につながる。
1-9 人生の環境や条件を創造したり、しなかったりすることは、神の働きではない。神は神の姿をかたどり、神に似せてあなたがたを創造した。残りは、神が与えた力によってあなたがたが創造したのだ。神は人生というプロセスと生命そのものを創造した。だが、神はあなたがたが自由に選べる選択肢を、人生を好きなように生きる生きる力を与えた。
その意味では、あなたがたの意志は、あなたがたに対する神の意志でもある。
1-10 人間の行動には二つの動機しかない。不安か。愛か。
実は、感情の源もこの二つだけだ。魂の言葉にはこの二つの言葉しかない。この二つはわたしが宇宙を創造し、あなたがたが住む世界を創造したときに生み出された二つの極なのだ。これが「支える思考」とわたしが呼ぶものだ。愛という考えか、不安という考え。そのどちらかが、すべての思考の陰にある。この二つは最初の思考、最初の力だ。人間の存在というエンジンを動かしている生のエネルギーだ。
ひとが愛し、次に破壊し、そしてまた愛するのはそのためだ。つねに一方の感情から他方の感情へと揺れ動くからだ。愛は不安を支え、その不安は愛を支え、その愛がまた不安を支える・・・。
1-11 あらゆる生命の目的はひとつしかない。あなたが、そして生きとし生けるものすべての目的は、できるかぎりの栄光を体験する、ということだ。
1-12 最高の秘密は人生とは発見ではなく創造のプロセスだということだ。
あなたがたは自分を発見するのでなく、自分を新たに創造していく。だから自分が何者であるかを知ろうとするのは、もうやめなさい。そうでなく、何者になりたいかを考え、そうなろうと決意して努力しなさい。
1-13 学校とは、知らないことを教わりたいと思うとき、行くところだ。すでに知っていて、何も学ぶ必要はない。すでに知っていることを思い出し、それにもとづいて行動すればいい。
魂は知る必要のあることはすべて知っている。隠されていることは何もない。だが、知っているだけでは、充分でない。魂は体験したがっている。

1-14 まずはじめにあったのは、「存在のすべて」、それだけだった。
「存在のすべて」には、比較対照の基準がなかった。
「存在のすべて」は、そのすばらしさを自らを体験的に知ろうとした。
このエネルギー(純粋な、見えず、聞こえず、観察できず、したがってほかの誰も知りえないエネルギー)は、自分のすばらしさを体験しようとした。そのためには、自分の中にある比較対照の基準を使わなければならないと気づいた。
そこで、「存在のすべて」自分を分割した。栄光の一瞬に「これであるもの」と、「あれであるもの」となった。また「どちらでないもの」も存在している。
こうして、突然に三つの要素が生まれた。ここにあるもの。あそこにあるもの。そしてここにもあそこにもないが、こことあそこがそうんざいするために存在しなければならないもの。つまり、あらゆるものを包み込むのは無である。空間を包含するのは、非空間である。部分を支えるのは全体である。
何者でもないことから、すべてが飛び出してきたこと、この根本的な出来事こそ、科学者が言う「ビッグ・バン仮説」にほかならない。
すべての要素が生まれたので時が生まれた。なぜなら、ものはまずここにあって、つぎにあそこにあるのであり、ここからあそこに移る時間は計測できるからだ。
1-15 神は愛が存在するためには、対照となるものが存在しなければならないことを知っていた。そこで神は偉大なる極、愛でないあらゆるもの(不安と呼ばれるもの)を創りあげた。
1-16 神は宇宙を分割することによって、見えるもの、見えないものを含めて現存するすべてのものを、純粋なエネルギーから創りだした。
「わたしであり/わたしでない」という等式の、わたしでない部分はさらに爆発して無数の小さい部分になった。このエネルギーのひとつひとつが、あなたがたが「霊(いのち)」と呼ぶものである。
1-17 自分自身を分割したわたしの聖なる目的は、たくさんの部分を創って自分を体験的に知ることだった。
創造者が「創造者である自分」を体験する方法は、ただひとつしかない。それは、創造することだ。そこで、わたしは自分の無数の部分に(霊の子供のすべてに)、全体としてのわたしがもっているのと同じ創造力を与えた。
あなたがたを通してしか、知る方法がなかったからだ。したがって、あなたがたを創った目的は、あなたがた自身がわたしであることを知らせるためだったと言ってもいい。
1-18 あなたがた自身がわたしであることを知る方法はただひとつしかなく、それはまず、わたしでないものとしての自分を知ることだ。
1-19 その計画的のもとで、純粋な霊であるあなたがたは、創造されたばかりの物質的な宇宙に入る。概念として知っていることを体験として知るためには、物質的な世界で経験するしかないからだ。そもそも、物質的な宇宙秩序を創った理由はそこにあった。宇宙を律する相対性のシステムを創った理由も、すねての創造行為もそこにある。
1-20 自分が何であるかを知るためには、自分ではないものと対決しなければならない。これが相対性の理論の目的であり、すべての物質的な生命の目的だ。自分自身を定義するのは、自分でないものによってなのだ。
1-21 あなたがたは、実際に創造するまでは創造者としての自分を体験することはできない。そして、自分自身を創らないという経験があってはじめて、自分を創ることができる。「何かである」ためには、「そうではない」ことを体験する必要があるからだ。
1-22 もちろん、あなたがたは、自分でなくなることなどできない。あなたがたはもともと、神の子供、「純粋な、創造的ないのち」なのだから。そこで、あなたがたは次善の方法をとった。自分がほんとうは何者であるのかを忘れたのだ。
物質的な宇宙に入ったとき、あなたがたは記憶を捨てた。忘れることで、単に王国の白で目覚めるのではなく、自分が何者であるかを選べるようになった。
1-23 したがって、地上でのあなたがたの仕事は、自分が何者であるかを学ぶことでなく、思い出すことだ。そして、ほかのみんなが、何者であるかを思い出すことだ。だから、ほかのひとにもそれを気づかせること、思い出すようにしむけることも大きな仕事の一つだ。

1-24 絶対の中では、知識があるだけで、体験はない。知っているというのは神聖な状態だが、最大の喜びは、何者かで「在る」ということのなかにある。「在る」ことは、体験してのちにはじめて達成される。「知る」こと、「体験する」こと、何者かで「在る」ことの順に発達し、進化する。これが聖なる三位一体、神の三位一体である。
1-25 父なる神とは「知る」ことだ。すべての理解の親であり、すべての体験はそこから生まれる。
息子である神は、「体験」だ。父が自らについて知っていることを体現し、行動化する。体験しなければ、何者かで「在る」ことはできない。
聖霊としての神は「在る」ことだ。息子が体験したすべてを超越して、ただ存在する。単純にこの上なくみごとに「在る」ということは、知ったこと、体験したことの記憶を通じてのみ可能になる。単純に「在る」ということは至福である。神の状態、自らを知り、体験したあとの状態だ。これこそ神がはじめから求めていたものだ。
1-26 この三位一体(生じさせるもの、生じるもの、そして在るもの)の在り方が、神のしるしであり、聖なるパターンだ。三つでひとつ、それは崇高な領域のどこでも見られる。時と空間。神と意識、微妙な関係はすべて、このかたちから逃げられない。
1-27 宗教家の一部は、三位一体の真実を父と子と聖霊と表現した。
心理学者の一部は、超意識、意識、潜在意識という言葉を使った。
霊を扱う人々は、精神と身体と霊魂と言う。
科学者の一部はエネルギーと物質とエーテルと考える。
哲学者の一部は、ものごとは思考と言葉と行為において真実になるまでは、真実とは言えないと語る。
時について議論するとき過去、現在、未来の三つの時制しかない。
空間的な関係は、ここ、あそこ、そしてその間と考えるだろう。
1-28 ところが、素朴な関係においては、「その間」という認識がない。素朴な関係はつねに二元的であるのに、崇高な領域の関係は必ず三元的だからである。
素朴な関係のなかでは、必ず対極が存在する。正反対のものが必ずある。
崇高な領域の関係では、対極というものはない。すべてはひとつであり、一方から他方へと変転して終りのない循環を繰り返している。
1-29 地震やハリケーン、洪水、竜巻など、あなたがたが天災と呼ぶものは、一方の曲から対極への要素の移動にほかならない。生死の循環はすべて、この移動の一部である。それが生命のリズムであり、素朴な領域にあるものはすべてこのリズムに従う。生命それ自体がリズムだからだ。それは波であり振動であり、「存在のすべて」の鼓動だ。
1-30 病や不調は健康の対極であり、あなたがたの要請に応じて現実になる。どこかのレベルで自らが引き起こさなければ病気にならないし、元気になろうと決意すれば快くなる。個人的な深い失望も自分で選んだものだし、世界的な災厄は世界的な意識の結果である。
1-31 外に向かってではなく、内に向かって「この災厄を前に、いま自分は何を体験したいのだろう。自分のどの部分を引き出したいのか」と問いかけなさい。人生のすべては、あなた自身の創造の道具なのだから、そして、出来事のすべては、自分は何者なのかを決定し、その自分になる機会を与えるために存在しているのだから。
1-32 それぞれの魂は(マスター)である。ただ、本来の自分や受け継いだ遺産を思い出せない者もいる。それでも、それぞれが自分の高い目的のために、そして出来るだけ早く真実の自分を思い出すために、状況と環境を創造しつづける。「いま」と呼ばれる一瞬一瞬に。
1-33 あなたがらは他者が歩む因果(カルマ)の道を、善いとか悪いとか判断してはならない。

1-34 かつて自ら光であることを知っている魂があった。これは新しい魂だったから、体験したくてならなかった。「わたしは光だ」とそれは言った。だが、この魂が生まれた領域では、光しかなかった。その小さな魂、まるで太陽の前ではロウソクのようだった。偉大な光の中では、その光の一部である魂は自らを見ることができないし、自分が何者であるかも体験できない。
そこで、その魂は全体から離れ、別の領域に行った。その領域では、魂はあらゆる闇を体験する力をもっていた。そして闇を体験した。
その闇のさなかで、魂は叫んだ。「父よ、父よ、どうして、あなたはわたしを見捨てたのですか?」。たとえば、あなたがたが暗闇にいるときのように。だが、わたしは一度もあなたがたを見捨てたことはない。つねにそばにいて、ほんとうは何者であるかを思い出させようとしているし、いつも、わが家に呼び戻そうとしている。
だから、闇の中の光になりなさい。そして闇の中にいることを呪ってはいけない。
また、まわりが自分と違うものばかりでも、自分が何者であるかを忘れてはいけない。そして創造物をほめたたえなさい。たとえ、それを変えたいと思っても。
最も大きな試練が、最も偉大な勝利になる可能性がある。あなたが生み出す体験は、自分が何者であるか、そして何者になりたいかという宣言なのだから。
小さな魂と太陽のたとえ話をしたのは、どうしていまのような世界になったのかを理解させるため、そして、誰もが現実の奥に秘められた神聖な真理を思い出せば、その瞬間に世界は変わりうることを、もっとよく理解させるためだ。
1-35 あなたがたは大きな創造物の機械であって、考えるのと同じ速さで新しいことを出現させている。
出来事、事件、条件、環境すべては意識から創造される。個々の意識はそれほど力強いものだ。集団意識は全世界に広がり、全地球的な結果をもたらす出来事や環境を創造するほど大きな力がある。
1-36 なにごとであれ、それを変える第一歩は。選んだのは自分だと認め、受け入れることだ。個人として責任があると思えなければ、わたしたちはすべて一体であるという理解を通じて、認めなさい。それから、間違っているからではなく、ほんとうの自分にふさわしくないからという理由で、変化させる努力をしなさい。
1-37 何かをする理由は、一つしかない。宇宙に向かって、自分は何者であるかを示すことである。
そうすれば、人生は自己の創造になる。あなたがたは人生を使って、真の自分、こうありたいと願ってきた自分を創造する。また、ある行動を拒否する理由も一つしかない。それが自分にふさわしくなくなった、という理由だ。その行為が、あなたがたの真の姿を表さないからである。
1-38 あなたがたは、外部の出来事を変えることはできない(出来事は多数によって創造されており、集団的に創造されたものを個人が変更できるほど、あなたがたの意識は成長していない)。だから、内的な経験を変えるしかない。これが生きることの王道である。
1-39 物事を勝手に決めつけるから、苦しむのだ。決めつけるのをやめれば、苦痛はなくなる。決めつけるのはそれまでの経験のせいだ。ものごとに対する考えは、過去の考えから生まれる。過去の考えはさらにその前の考えの結果である。そしてその考えはまたさらに過去の考えから生まれるというふうに、まるで積み上げたレンガのように続く。この鏡の廊下をずっとたどっていくと、わたしが「最初の考え」と呼ぶものに行きつく。
1-40 あることが(考えでも言葉でも行為でも)「間違っている」というんは、それをするなと禁じるのと同じだ。禁じるというのは制約するということだ。制約するというのは、真のあなた方を否定することだ。

1-41 地獄とは、あなたがたの選択、決定、創造の最悪の結果を体験することだ。わたしを否定する考え、あるいはあなたがた自身の真の姿を否定する考えから生まれる。
地獄とは喜びの対極である。満たされないこと。自分が何者かを知っていながら、それを体験できないこと。本来の姿にくらべて卑小な在り方。それが地獄であり、あなたがたの魂にとって、それよりもつらいことはない。
1-42 すべての物質的な生命は自然の法則に従う。この法則を思い出して適用すれば、物質的なレベルでの生命は支配できる。あなたがたの目には罪と見えるもの、あるいは悪とか不運と思われるもの、それは自然の法則の結果でしかない。

1-43 宇宙の法則は、わたしが定めた法則だ。それは完璧な法則で、物質を完璧に機能させる。
1-44 自然の法則は学ぶことでなく、思い出すのだ。
1-45 まず、静かにすることだ。外の世界を静かにさせて、内側の世界が見えてくるようにしなさい。この内側を見る力、洞察力こそあなたが求めるものだが、外部の現実に心をわずらわせていては決して得られない。だから、できるだけ内側へ入っていきなさい。
1-46 内側に入っていかなければ、からっぽで出て行かなければならない。
1-47 現在という栄光のある時に、経験を創り出すこと、したがって自らを作り出すことが目的なのだから、どんな人生を経験するのか、前もって選びはしない。
だが、経験を作り出すためのひとや場所、出来事は選ばれ、条件や環境、そしてチャレンジや障害、機会と選択肢も選ばれている。
1-47 魂が何を選んでもあなたがたには限りない可能性が開けている。あなたがたが限られたものと呼ぶ肉体に宿る魂にはどんなことも可能だ。ただあなたがたには、魂の課題が理解できないし、魂の意図もわからない。
だから、あらゆる人と条件を祝福し、感謝しなさい。そうすることで、神の創造物の完璧さを認め、神への信頼を示しなさい。神の世界ではいきあたりばったりに起こることは何もないし、偶然もない。
1-48 「正しい」とか「間違っている」とかは、物事の本質ではなく、個人の主観的な判断だ。その主観的な判断によって、あなたは自らを創り出す。個人的な価値観によって、あなたは自分が何者であるかを決定し、実証する。

1-49 わたしは、あなたがた自身がしないことは何もしない。それが法則であり、予言だ。
1-50 あなたがた自らの中に犯罪の原因を見出したとき、ようやく犯罪の温床となる原因の治療を始めることができる。
飢えた人々に食物を、貧しい人びとに尊厳を与えなさい。運に恵まれていない人に機会を与えなさい。大衆が怒る原因となる偏見に、より良い明日へのささやかな約束によって終止符を打ちなさい。性的エネルギーに関する無意味なタブーや制約を捨て、人々がその真の素晴らしさを理解するように、適切な方向にエネルギーを向けるように助けてやりなさい。
1-51 キリストの最も偉大な教えは、あなたがたが永遠の命を得られるだろうということでない。あなたがたは永遠の命があるということだ。あなたがたは求めたものを与えられるだろうということではない。すでに与えられているということだ。
必要なのは、それを知ることだけだ。あなたがたは自分の現実の創造者だ。そして人生はあなたがたが予想するようにしか、展開しない。
1-52 考えることが、現実になる。これが創造の第一歩である。父なる神とは考えだ。あなたがたの考えは、すべてのものごとを誕生させる親である。
1-53 第一の法則は、あなたがたは自分が創造するとおりになれるし、創造するとおりのことができるし、創造するとおりのものをもてるということだ。
第二の法則は、あなたがたは恐れ、不安に思うものを引き寄せるということだ。
1-54 感情はものごとを引き寄せる力がある。あなたがたは、自分が最も不安に思うことを体験することになる。
1-55 感情は動いているエネルギーである。エネルギーが動くと、効果が表れる。大量のエネルギーが動けば、物質が創り出される。物質は凝縮したエネルギーだ、動きまわり、押しあうエネルギーだ。長いあいだ、一定の方向でエネルギーを操作するば、物質が得られる。これは宇宙の錬金術だ。すべての生命の秘密だ。
1-56 思考は純粋なエネルギーである。思考のエネルギーは、決して死に絶えない。あなたがたの存在を離れて宇宙へと向かい、永遠に広がっていく。思考は永遠だ。
1-57 すべての思考は、凝結する。すべての思考はほかの思考と出会い、信じ難いエネルギーの迷路で行き違い、言葉に尽くせないほど美しく、信じ難いほど複雑な、つねに変容し続けるパターンを生む。
1-58 エネルギーは似たもの同士が引けつけあう。そして似たエネルギーの「かたまり」をつくる。似たような「かたまり」がたくさん出会い、ぶつかりあうと、お互いに「くっつきあう」。こうして考えられないほど膨大なエネルギーが「くっつきあう」と、物質ができる。
1-59 同じ精神をもった人びとが力をあわせれば好ましい現実を創りだせるということを、あなたがたはそろそろ理解すべきだ。

1-60 法則は非常に単純だ。
@思考は創造につながる、
A不安や恐怖は似たエネルギーを引き寄せる。
B存在するすべては愛である。

1-61 愛は究極の現実だ。それが唯一であり、すべてだ。愛を感じるということは、神を体験することだ。
至高の真実のなかでは、存在するすべては愛であり、存在したすべて、これから存在するであろうすべても愛である。絶対の領域に入るとき、あなたがたは愛のなかへ歩み入る。
1-62 相対性の領域は、わたしが自らを体験するために創り出したものだ。それはあなたがたとわたしが自分を体験的に知るために工夫した、そしていまも工夫し続けている、創られた現実だ。
つまり、相対性の領域を創造することで、わたしは、あなたがたが神であると言われるだけでなく、神であることを選択できる環境を作り出した。その領域であなたがたが概念ではなく創造行為として、神を体験できる。
1-63 不安や恐れは愛の対極である。これが第一の両極。相対性の領域を創ったわたしは、先ず自らの対極を創りだした。さて、あなたがたが暮らす物質的な領域には、二つの在り方しかないといった。不安と愛である、不安に根ざした思考が物質的な場を生む。愛に根ざした思考がもう一つの場を生む。


第2章
自分の信念をもち、自分の価値観に従いなさい。
それがあなたの親、その親の親の価値観、友人、社会の価値観なのだ。
あなたが幸福かどうか知っているのは、あなただけだ。

2-1 神は悲しみのなかにも笑いのなかにも、苦さのなかにも甘さの中にもいる。すべての奥に聖なる目的がある。したがって、すべてのなかに聖なる存在がある。
2-2 あなたがたが創り出すものはすべて、思考も品物も出来事もそれにどんな経験も、神の計画のなかにある。神の計画のもとで、あなたがたは望むものを何でも創り出すことができる、その自由に、神が神であることの体験が在る。あなたがたを創りだしたのはこの体験のためだし、生命そのものを創りだしたのもそのためだ。
2-3 神は何でも受け入れる。存在するものを神が受け入れないはずはない。拒否するというのは、その存在を否定することだ。何かがいけないと言うのは、それがわたしの一部ではないと言うことである。そんなことはありえない。
2-4 だが、あなたは自分の信念を持ち、自分の価値観に従いなさい。それはあなたがたの親の、そして親の親の価値観だから。友人の、そして社会の価値観だから。自分自身の価値観があなたの人生の骨組みになっている。それを失えば体験の布目がばらばらにほつれてしまう。ただ価値観をひとつずつ検討しなさい。ひとつずつ、見直しなさい。家を解体するのではなく、レンガをひとつずつ調べ、壊れていてもう家の構造を支えられなくなっているものはとり替えなさい。
2-5 善悪についてのあなたがたの考え、それもあなたがたをかたちづくり、創造する思考のひとつだ。その思考を変える理由はひとつしかない。あなたがたが、「そう考えている自分」では幸福でないときだけだ。
あなたが幸福かどうか知っているのは、あなただけである。あなただけが、自分の人生について「これはわたしの創造物である。わたしはとても満足している」ということができる。
あなたの価値観が自分に役立つなら、大事にしなさい。これがわたしの価値観だと言い、まもるために闘いなさい。だが、闘うといっても、誰も傷つけないように気をつけなさい。傷つけることは、癒しにはつながらない。
2-6 あなたが真実だと思っている価値判断のなかで、体験にもとづいたものはごくわずかしかない。あなたがたは体験するためにこの世に生まれ、すでに体験を通じて自分を創りあげるはずだった。ところが他人の体験から自分を創りあげている。
2-7 あなたがたは自分で体験するまで待たず、他人の体験を福音として受け入れ、実際の体験をするときには、すでに知っていると考えていることをなぞる。
2-8 人間のセクシュアリティに対するあなたがたの態度を見ればよくわかる。
誰でも、性的体験が人間の行為のなかで最も愛すべきで、胸躍る、力強い、昂揚する、新鮮でmエネルギッシュで、前向きで、親密で、一体感のあるものだと知っている。
それなのに、あなたがたは他人が考え出した性に関する判断、見解、考えのほうを受け入れる。
そういう見解、判断、思考は体験と真っ向から対立するのに、あなたがたは教師が間違っていると考えるのはいやだから、間違っているのは体験のほうだと自分に言い聞かせる。その結果、あなたがたは真実を裏切り、そのために、破壊的な影響を生じている。
2-9 金銭についても同じことだ。大金を持つたびに、あなたは嬉しくなった、大金を受け取れば喜び、使うと楽しくなった、だが、この問題でも、ほかのひとの教えが深くしみこんでいるから、他人の「真実」を認めて、自分の体験を否定する。
2-10 あなたがたは他人の「真実」を自分のものとし、それを中心に思考を築いてきた。思考は創造だ。あなたがたは金銭に対しては、金銭を遠ざけるという現実を創りだしてきた。だって、善でないものを引きつけようとするはずはないだろう。
2-11 驚いたことにあなたがたはそれと同じ矛盾を、神についても創りだしてきた。
あなたがたの心では、神は恐れたりせず愛すればいいと感じている。神について教えるものは神は復讐心に満ちている。恐れよ、と言う。神の怒りを恐れて生きよと言う。あなたがたは、神の存在に震えおののかなければならない。一生、神の戒律に「従順」であれ。さもないと大変なことになるぞ、と言うから。
2-12 神には何も必要でない。「すべて」、それが神だからだ。欠けているもの、必要なものは何もない。それが神という存在なのだ。
2-13 要求とは、すべての創造の始まりである。最初の考えである。魂の中の偉大な感覚である。それは神であり、次に何を創造するかの選択である、では、神の要求とは何か。
第一に、栄光のなかでわたし自身を体験することを願った。わたしが何者であるかを知ることを願った。あなたがたを、そして宇宙の世界すべてを創り出すまえには、それは不可能だった。
第二に、あなたがたに「自分で選んで創造し、体験する」という力を与えて、真の自分を知って体験させようと願った。
第三に、生命のプロセスのすべてがたえまない喜びと創造の体験であり、終わることのない拡大で、一瞬一瞬が充分に満たされることを願った。
2-15 大きな大きな喜びと愛と受容と祝福と感謝を感じるだろう。
この五つは神の姿勢である。あなたがたもこの五つを実践すれば神性が得られることを、この対話のなかで教えてあげよう。
2-16 そう、自分の価値観に従いなさい。それが役に立つと思うあいだは。ただし、その価値観が役に立っているかどうか、最も気高く、すぐれた考えを体験する場をあたえてくれているかどうか、思考と言葉と行動を通じて、点検しなさい。
2-17 価値観をひとつづつ検討しなさい。外の光を当ててみなさい。世界に向かって、自分が何者か、何を信じているかを、ためらわず、はっきりと言い切れるなら、あなたは幸せだ。


第3章
宇宙には「良い」状況も「悪い」状況もないと、第一に理解しなさい。
すべてはあるがままに過ぎない。第二に、すべての状況は一時的だ。
そして、それがどちらの方向に変わるかはあなた次第だ。

3-1 わたしはあなたがたが選んだとおりのものをもてるよう、創造できるようにするために、宇宙の法則をうちたてた。
人生の一瞬一瞬がすべて、その法則のなかで動いている。
あなたがたは、神のパートナーである。わたしたちには永遠の契約がある。わたしは、常に望むものを与えると約束した。あなたがたの役割を尋ねることだ。尋ねて答えを得るというプロセスを理解することだ。
3-2 このプロセスをもう一度説明しよう。
あなたがたは、三層から成り立ッている存在だ。<身体と精神と霊魂>とでできあがっている。これは<肉体、非肉体、超肉体>と呼んでもいい。
3-3 あなたがたのこの三つの要素は、実際には三つのエネルギーである。それを思考、言葉、行為と呼んでもいい。この三つがあわさって結果が生じる。あなたがたはそれを、感情とか経験と呼んでいる。
3-4 あなたがたの<魂>、つまり超意識、イドー、霊魂、過去はかつて経験した、創造したすべての感情の総和である。その一部で、意識のなかに浮かび上がってきたものを記憶と呼ぶ。それが思い出す(re-menber)ということだ。思い出すということは、かつて経験した感情を再びメンバーにする、部分を集め、並びかえるということだ。
3-5 創造のプロセスは思考から始まる。考え、概念、ヴィジョンだ。あなたが見ているものはすべて、かつて誰かの思考だった。すべて、最初は、純粋な思考から始まっている。それ以外のものは存在しない。
これは宇宙でも同じことだ。
3-6 思考が創造の最初の段階。
3-7 つぎに言葉がくる。あなたが言うことはすべて、考えたことの表れである。言葉は創造につながり、創造のエネルギーを宇宙に放出する。言葉は思考よりダイナミックだ。なぜなら言葉と思考は波動のレベルが異なる。言葉は思考より大きな衝撃を与えて宇宙をゆるがす。(変化させ、改め、影響を及ぼす)
3-8 言葉が創造の第二の段階。
3-9 次に行為がくる。
行為は動いている言葉である。言葉は考えことの表れである。考えるとは思いをかたちづくること、思いとはエネルギーの集まりである。エネルギーは放出された力である。力は実在の要素である。要素は神の分子で、すべての成分であり、あらゆるものの実体である。
3-10 はじまりは神で、終りは行為である。行為は創造する神、あるいは体験された神である。
3-11 あなたがたは自分が神の一部や、神のパートナーであるはずはない、それほど善良でも素晴らしくもないし、純粋でないと考えている。長い間否定してきたので、真の自分を忘れてしまったのだ。
3-12 それも偶然でない。すべて聖なる計画の一部なのだ。
あなたがたが、真の自分をすでに実現しているとしたら、真に自分を主張することも、創造することも、体験することもできない。まず神であるわたしとのつながりを捨て、否定し、忘れなければ、それを創造して、体験することはできない。
あなたがたの最大ののぞみは、つまり神であるわたしの最大の欲求は、あなたがたが神の一部としての自分を体験することだ。わたしもそうだ。あなたがたを通じて体験している。
3-13 神の約束とは、あなたが神の息子であるということだ。あなたは神の子孫、神の如きもの、神と対等な存在だ。
3-14 もし神と対等な存在なら、外からあなたに何もできないということになる。すべてはあなたによって創造されたことになる。もう被害者も悪人もない。ただ、ものごとに対するあなたの考えの結果があるだけだ。
そのとおり、あなたが世界で見るものすべて、あなたの考えの結果だ。
3-15 ほんとうに人生が「上向く」ことを望むか?
それなら、まず、人生に対する考えを変えなさい。自分に対する考え方を変えなさい。そして、神である自分らしく考え、話し、行動しなさい。
3-16 あなたの単純な真実、単純な真実のままの人生、俗世界の人びとが考案するどんなものよりも美しく、心地よく、安らかで、愛に満ちている。
3-17 最も気高い、こう在りたいと思う自分を考えなさい。そして、毎日其のとおりに生きたらどうなるかを想像しなさい。自分が何を考え、何をし、何を言うか、ほかの人の言動にどう応えるかを想像しなさい。
3-18 さて、いまの自分とこうありたいと望む自分の違いがわかったら、考えと言葉と行動を気高いヴィジョンにふさわしく、意識的に、変えようと決心しなさい。
3-19 一瞬も怠らず、常に自分の思考と言葉と行為を見張っていなくてはならない。常に、意識的に、選択をつづけなければならない。このプロセスは、意識的な人生への大きな一歩だ。そう決意すると、人生の半分を無意識のまま過ごしてきたことに気づくだろう。結果を体験するまで、自分の思考と言葉と行為をどう選んでいるか、意識しないできたということだ。しかも、結果を体験しても、自分の思考、言葉、行為がそれと関係があるとは考えない。
これは、そんな無意識な生き方はやめなさいという呼びかけだ。あなたの魂が時のはじめからあなたに求めてきた課題なのだ。
3-20 意識的な生き方は第二の天性になるだろう。実際第二の天性なのだから。無条件に愛するというのが第一の天性、その最初の天性を意識的に表現する、そう選択することが第二に天性だ。
3-21 あなたの高いヴィジョンにそぐわない考えが浮んだらそのとき、その場で「新しい考え」に変えなさい。立派な考え方にそぐわないことを言ってしまったら、二度とするまいと心に銘記しなさい。最善の意図にそぐわないことをしたら、これを最後にしようと決意しなさい。そして、できれば関係者たちに訂正してまわりなさい。

3-22 宇宙には「良い」状況も「悪い」状況もないことを第一に理解しておくべきだ。すべてはあるがままにすぎない。だから、価値判断はやめなさい。
第二に、すべての状況は一時的だ。どんなこともいつまでも同じままではいないし、静止してはいない。どちらかの方向へ変わるかはあなたしだいだ。

3-23 魂が何を追及しているかを、はっきりと知ることだ。そして、それについて批判するのをやめること。
3-24 自分自身を批判するのをやめなさい。何が魂の望みかを知って、それに従いなさい。魂とともに行きなさい。
3-25 魂が追求しているのは、想像しうるかぎりの最高の愛の感情だ。これらが魂の欲求、目的だ。魂は感じようとしている。愛を知ろうとしているのではなく、、感じようとしている。
3-26 最高の感情は「すべてである」存在と合体する経験だ。それは真実へと帰ることであり、魂が切望しているその真実が、完璧な愛である。
3-27 完璧な愛とは色のなかの完璧な白のようなものだ。多くの人は白とは色がないことだと考えているが、そうではない。あらゆる色を含んでいるのが白だ。白は存在するあらゆる色が合体したものだ。だから、愛とは感情(憎しみ、怒り、情欲、嫉妬、羨望など)がないことでなく、あらゆる感情の総和だ。あらゆるものの集合、すべてである。
だから、魂が完璧な愛を経験するには、「人間のあらゆる感情」を経験しなければならない。
3-28 人間の魂の目的はすべてを経験すること、これによってすべてになりえることだ。
一度も下降したことがなければ、どうして上昇できるだろう?一度も左になったことがなくて、そうして右になれるだろう。冷たいということを知らなければ、どうして温かくなれるだろう?悪を否定していたら、どうして善になれるだろう?選択肢がなければ魂は何も選べない。魂が偉大さを体験するためには、偉大であるとはどういうことかをしらなければならない。そこで魂は、偉大さは偉大でないところにしか存在しないと気づく。だから、魂は偉大でないものを決して非難しない。それどころか祝福する。そこには自らの一部、別の一部が現れるために必要な一部があるから。
3-29 もちろん魂の使命はわたしたちに偉大さを選ばせること、選ばなかった部分を非難せず、最善の自分を選ぶようにさせることだ。こんな大きな使命を果たすには、いくつもの生涯が必要だ。

3-30 あなたがたは一生、自分は悪だと自分に言い聞かせている。自分が悪であるだけでなく、自分が欲するものは悪だと考える。セックスは悪、金は悪、喜びは悪、力は悪、豊かなことは悪、何でもかんでも悪だ。
自分の使命を向上するためには、そんなやり方でもかまわない。いずれにせよ、目的地は同じだ、ただ、もっと近道がある。
3-31 いますぐに、自分自身を受け入れ、それを実証すること。
イエスはそれをした。それがブッダの道であり、クリシュナの道、、地球上に現れたすべての<マスター>の道だ。
3-32 あなたがたは善であり、慈悲であり、同情であり、理解だ。あなたがたは平和であり、喜びであり、光だ。あなたがたは赦しであり、忍耐であり、力であり、勇気であり、苦しいときの援助者であり、悲しいときの慰め手である、傷ついたときの癒し手であり、迷ったときの教師だ。あなたがたが最も深い智恵と真実、最も偉大な平和と愛だ。あなたはそういう者なのだ。そして、たまには、自分がそういう者だと気づくことがあった。
これからは、いつも、自分はそういう者だと理解していなさい。


第4章
自分がふさいだり、落ち込んだりしていると思ったら、考えなおしなさい。
そんなことをしていても何もならないと思ったら、考えなおしなさい。
やり直したいと思うのなら、人生は何度でもあるから。

4-1 このゲームに負けることはない、そういうことだ。間違うことはない。それは計画に入っていない。あなたが目指しているところへ行き着かないことはあり得ない。神があなたの目標でよかったね。神は大きいから、目標から外れたりしないよ。
4-2 人生は創造であって、発見でない。あなたがたは、人生に何が用意されているかを発見するために毎日を生きているのではなく、創造するために生きている。自分ではわからないだろうが、あなたがたは、一瞬一瞬、自分の現実を創造している。
4-3 どんなふうに創造しているかまとめてみよう。
@わたしは神の姿をかたどり、神ににせて、あなたがたを創造した。
A神は創造者だ。
Bあなたがたは三つが一体になった存在だ。父と子と聖霊でもいいし、精神と身体と霊でもいいし、超意識と意識と無意識でもいい。
C創造とはその三つの部分から生ずるプロセスである。言い換えれば、あなたがたの創造には三つの段階がある。創造の道具は思考、言葉、行為だ。
Dすべての創造は思考から始まる。すべての創造はつぎの言葉になる。(「求めなさい、走すれば与えられるだろう。話なさい、そうすれば成就するだろう。」)すべての創造は行為によって成就される。(「言葉はひととなって、わたしたちの間に住まわれた。」(
Eあなたが考えるだけで言葉に出さなくても、一つの段階での創造だ。考えて言葉にすれば、もう一つの段階での創造になる。あなたが考え、語り、行動すると、具体的な現実になる。
F本当は信じていないことを考えたり、語ったり、行動したりすることはできない。だから、創造のプロセスには信念、つまり知るということが含まれる。絶対的信頼だ。願うだけでなく、確実にそうなると知っていなければならない。(「あなたは信仰によって癒される。」)したがって、創造行為には、常に知識が含まれる。何かを身体で理解し、まるごと確信する、「完全に受容する」ということだ。
Gそこまでわかっていれば、強い感謝の気持ちが生まれる。感謝せずにはいられない。それがたぶん、創造の最大の鍵だ。創造が具体化する前に、創造に感謝することだ。願いは当然かなえられると信じることだ。
Hあなたが創造するすべて、創造したすべてを祝福し、楽しみなさい。一部でも否定すれば、自分の一部を否定することになる。あなたの創造の一部としてどんなものが現れようとも、それを自分のものとし、祝福し、感謝しなさい。非難しないように努めなさい。非難するのは、自分を非難することだからだ。
I自分が創造したなかで、楽しめず祝福できないものがあったら、選びなおしなさい。新しい現実を呼び出しなさい。新しいことを考え、新しい言葉を口にし、新しいことをしなさい。立派にやり直せば、世界はあなたについてくるだろう。「わたしが生命であり、道だ。ついてきなさい。」と言いなさい。
これが神の意志を「天国と同じく、地上にも」実現させる方法だ。


4-4 人生を「上向かせる」には、まず人生についての考えを明確にしなければならない。どうなりたいのか、何をしたいのか、何がほしいのか、よく考えなさい。はっきりするまで、考えなさい。そしてはっきりしたら、今度はほかのことは考えず、ほかの可能性を想像しないことだ。
4-5 否定的な考えは頭から追い出しなさい。悲観主義を一掃しなさい。疑いを捨てなさい。不安を拒否しなさい。創造的な考えをしっかりつかんで離さないように心を鍛えなさい。
4-6 あなたの考えがはっきりしたら確かなものになったら、それを真実として語りなさい。はっきりと声を出しなさい。創造の力を呼び出す偉大な号令を使いなさい。「これがわたしである」という号令を。
ほかのひとに、「これがわたしである」と宣言しなさい。「これがわたしである」というのは、宇宙で最も力強い宣言だ。あなたが何を考え、何を語るにしても、「これがわたしである」という言葉をきっかけにものごとが動き、体験できるようになる。
4-7 宇宙の動く仕組みはそれだけだ。ほかに道はない。宇宙は「これがわたしである」という言葉に応える。
4-8 自分の考えにたがをはめ、コントロールすることは、それほど難しくはない。すべては鍛錬の問題だ。意志の問題だ。
4-9 第一段階は、自分の考えを見張ること。自分は何を考えているのだろうと考える習慣をつけることだ。否定的なことを考えているのに気づいたら考えなおしなさい。ふさいだり、落ちこんだりしていると思ったら、してそんなことをしていても何もならないと思ったら、考えなおしなさい。世界はいやなところだ、いやな出来事だらけだと思ったら、考えなおしなさい。人生はめちゃくちゃだ、もうだめだと思ったら、考えなおしなさい。
自分を訓練することは可能だ。
4-10 やり直したいと思うなら、人生は何度でもあるから。


第5章
何かから離れることはできない。相手は地獄までもあなたについてくる。
それならば、どんな誘惑にも抵抗しないことだ。ただし、そこから顔をそむけて歩きなさい。
この旅は、目的地に「行き着かない」旅ではないのだ。

5-1 神の言葉は戒律ではなく、約束だ。したがってこれは・・・「言質」である。
あなたがたは神への道をたどっていることを知るだろう。そして、神を見出していることを知るだろう。なぜなら次のようなしるし、兆し、変化があなたのなかに起こるからである。
@あなたがたは心のすべて、精神のすべて、魂のすべてをあげて神を愛する。わたしをして、わたしのほかに神はない。あなたがたはもはや人間の愛も、成功も、金も、力も、いかなるシンボルも崇拝しない。あなたがたは、子供が玩具をわきに押しやるように、それらを押しのける。それらに価値がないからではなく、あなたがたが成長し、それらを「卒業した」からだ。
そして、あなたがたは神への道をたどってきたことを知る。なぜなら、
Aあなたがたはみだりに神の名を使わない。また、つまらないことで、わたしを呼ばない。あなたがたは言葉の力、考えの力を理解する。神にふさわしくない方法で神の名を口にしようとは考えない。なぜならそんなことはできないからである。わたしの名、−−「これがわたしである」という偉大な言葉は、決してみだりには使われない(したがって、使われれば必ず影響がある)し、みだりに使われることはありえない。神を見いだしたとき、あなたがたはこのことを悟る。
あなたがたには、ほかのしるしも与えよう。
Bあなたがたは一日をわたしのためにとっておき、この日を聖なる日と呼ぶ。そうすれば、その日には自分の幻想から覚めて、自分が何者であるかを思い出すことができるから。そして、まもなくすべての日を安息日と呼ぶようになり、どの瞬間も聖なるものとなる。
Cあなたは母と父を敬愛する。そして、言うこと、為すこと、考えることのすべてにおいて父/母なる神を敬愛する時、自分が神の息子であることを知る。そして母/父なる神を敬愛し、地上の父と母を敬愛すればすべてのひとを敬愛するようになる。
D殺生を(理由もなく、意図的に)しないとき、あなたがたは神を見いだしたことを知る。そのような場合においても、他の生命を奪えない(すべての生命は永遠である)ことを理解するとともに、神聖で正当な理由がなければ、輪廻の一時期にある生命を壊しはせず、生命エネルギーの形態を変化させもしない。あらためて生命を尊敬するようになれば、植物、動物を含むあらゆるかたちの生命を敬愛し、最高の目的にかなっているときだけ、生命体に影響を及ぼすようになる。
さらに、あなたがたが神への道をたどっていると知ることができるよう、つぎのようなべつのしるしもあなたがたに送ろう。
Eあなたがたは不誠実や欺瞞によって愛の純粋さをけがさせない。それは不義だから。神を見いだしたとき、あなたがたはそのような不義を犯さないと、わたしは約束する。
Fあなたがたは自分の所有物でないものはとらず、何ものにせよ所有するためにだましたりせず、見て見ぬふりでず、他者を傷つけない。それは盗みだからである。神を見いだしたとき、あなたがたが盗みをしないことを、わたしは約束する。
さらに、あなたがたは・・・、
G真実でないことを口にせず、したがって偽りの証言をしない。
H隣人に配偶者を欲しない。他者はすべて自分の配偶者であることを知っている時、なぜ隣人の配偶者を欲しなければならないのか?
I隣人の財物を欲しない。すべて財物は自分のものとなりえること、あなたのすべての財物は世界のものであることを知っているとき、なぜ隣人の財物を欲しなければならないのか?
これらのしるしが生じたとき、あなたがたは神への道を見いだしたことを知るだろう。まじめに一生懸命に神を求めるものなら、ここに否定されていることをしないと、わたしに約束するからだ。そうした振る舞いを続けることは不可能になるはずである。
これは制約でなく、あなたがたの「じゆうだ」だ。これは、わたしの戒律でなく、わたしの「言質」である。神は神の創りだしたものに対して命令をすることはない。神は神の子に語りかけるだけだ。それによって、あなたがたはわが家に帰ろうとしていることを知るだろう。
5-2 モーセは熱心にたずねた。「わたしはどのようにして、知ることができるのですか?わたしにしるしをお与えください。」モーセはいまのあなたと同じことをたずねた。時が始まって以来、誰もがあらゆるところで、同じ質問をしてきた。わたしの答えも永遠である。だが、決して戒律であったことはないし、これからもない。わたしが誰に戒律を守れと命じるのか?わたしが戒律を守らなかったと言って、誰を罰するのか。
在るのはわたしだけだ。

5-3 悟りとは、経験していないことを知ること、それによって経験すると言うことだ、知ることによって経験への扉が開かれる。そして逆もまた真である。
実際には、あなたがたは経験しているよりずっと大きなことを知っている。ただ自分が知っていることを知らないだけだ。


5-4 ほんとうの精神生活では、欲望や自我をすてなければならい。
なぜなら、つきつめればあらゆる魂は真実でないものを捨てるし、あなたが送っている人生の真実とは、わたしとの関係だけだから。しかし、昔から言われてきたように自己否定がもとめられているわけでない。
5-5 真のマスターは何かを「あきらめ」たりしない。無用なものを遠ざけるだけだ。
欲望を克服しなければならないと教える人がいる。だが、わたしは、ただ欲望を変えなさいと言う。初めて実行するときは厳しい修行だと感じるかもしれないが、二度目は楽しい実践になるだろう。

5-6 神を知るためには、あらゆる現世的な情熱を克服しなければならないと教えるひとがいる。だが、そうではない。現世的な情熱を理解し、受け入れるだけで充分だ。抵抗すれば、相手はかえって強くなる。見つめれば、相手は消える。
5-7 現世的な情熱を真剣に克服しようとする者は、一生懸命に努力するあまりに、その努力が情熱になってしまう。彼らは「神を求める情熱」をいだくようになる。神を知ろうとする情熱だ。しかし、情熱には違いない。ひとつの情熱をべつの情熱に変えても、克服したことにならない。
だから、自分の情熱を感じるものを批判しないこと。ただ、それに気づき、どんな自分になりたいかを考えたとき、なりたい自分になるのを役立つかどうか見きわめなさい。
5-8 覚えておかなければならないのは、あなたが常に自分を創造し続けている存在であることだ。それは主として、自分が情熱を感じる人やものに関する選択を通じて行われる。
5-9 精神的な道を歩んでいるひとは、現世的な情熱、人間的な欲望をすべて捨てているように見える。実はそうではなく、情熱や欲望を理解し、幻想を見極め、自分のためにならない情熱を遠ざけているのだ。その一方では幻想を愛してもいる。幻想は完全に自由になるチャンスでもあるからだ。
5-10 情熱とは、「こう在る」ということから「行為」への転換を愛することである。情熱は創造というエンジンの燃料である。情熱は思いを経験に変える。
5-11 情熱はほんとうのわたしたちを表現したいという思いを駆り立てる火である。決して情熱を否定してはいけない。否定すればあなたが何者であるか、本当は何者になりたいかを否定することになる。
5-12 悟りとは情熱を否定することではない。結果への執着を否定することだ。情熱は行為への愛である。行為は「ある在り方」を経験することだ。それで、行為の一環として何が生まれるか?期待だ。
5-13 期待なしに人生を生きること、具体的な結果を必要とせずに生きること、これが自由である。これが、神性である。これが、わたしの生き方である。

5-14 結果には、決して執着しない。わたしの喜びは創造にあるのであって、その結果にはない。悟るとは行為を否定しようと決意することではなく、行為の結果には意味がないと理解することである。

5-15 在るというのは、存在の最高の状態である。純粋なエッセンスである。それは、「現在であって/現在出ない」「すべてであって/すべてでない」「常在であって/無である」という神の側面である。
純粋に在るとは、純粋に神であることだ。
5-16 だが、わたしたちは単にあるだけでは決して満足できない。常に、経験を求める。自分が何であるかを経験したい。それには神性のまったく別の状態が必要となる行為だ。
5-17 あなたがたの確信は愛と呼ばれる神性の状態である。ところが、愛であることと、愛することはまったく別の事柄である。魂は経験によって自分を知るために、何かをしたいと願う。魂は行為を通じて最高の考えを実現しようとする。
5-18 何かをしたいという衝動は情熱と呼ばれる。情熱を殺せば、神を殺すことになる。
5-19 神が、あるいはあなたがたの中の神が、愛すれば、神自身はそれを実現されるから、それ以上は何も必要がない。
一方、人間は投資には見返りが必要だと感じる。誰かを愛するのはいいのだが、相手からも愛が返ってきてほしいと思う。そう考える。
これは「情熱」ではない。「期待」である。
これが、人間の不幸の最大の原因である。それが神と人間の違いである。
5-20 悟りとは、東洋の神秘主義者がサマディ(三昧)と呼ぶ体験を通じて、この違いを克服しようとすることである。つまり心を開いて神と一体になること、神性と融合し、神性の中に溶け込むことだ。
したがって悟りとは結果を放棄することである。決して情熱を放棄することでない。それどころかマスターは直感的に、情熱こそ神への道であることを知っている。情熱は自己実現への道である。

5-21 現実だと感じないものに抵抗することはできない。抵抗するということは、相手に生命を付与することだ。エネルギーに抵抗すれば、エネルギーを発生させることになる。抵抗すればするほど、相手は実体をもつ。何に抵抗しても、これは同じことだ。
5-22 目を開いて見つめれば、相手は消える。相手は幻想という実体をさらけ出す。
あなたが何かを見つめれば、相手を見透かし、それが幻であると見抜くから、究極の現実以外は何も残らない。究極の現実の前には、小さな幻想など何も力もない。相手は弱くなった手であなたをとらえておくことができなくなる。あなたは相手の「真実」を見きわめ、それによって自由になる。

5-23 自分が何者だと思うか。そして、何者になりたいと思うか。
これがすべての選択基準である。これまでも、これからも、すべての人生の選択基準である。
5-24 拒否しても、実際には何も捨てられない。説明してきたとおり。抵抗すれば相手はますます強くなるからだ。真の悟りとは捨てることでなく、違う選択をすることだ。何かから離れる行為でなく、何かに向う行為である。
あなたは何かから離れることはできない。相手は地獄までもあなたについてくる。それならば、どんな誘惑にも抵抗しないことだ。ただ、そこから顔をそむけなさい。わたしのほうへ顔を背けなさい、わたしに似ていないすべてのものから顔をそむけなさい。
5-25 ただし、間違った道というものはない。この旅は、目的地に「行き着かない」旅ではありえないから。違うのは、いつそこに着くかというだけである。しかも、これさえもほんとうは幻想だ。「いつ」と言うことはないし、「その前」も「その後」もない。常に現在があるだけだ。あなたが自分を経験し続ける永遠の時があるだけだ。
5-26 人生の意味とは創造である。自分を創造し、それを経験することである。


第6章
思考が行動になれば救える。
あらゆるところでおおぜいのひとたちが、環境を救うために、何かをしなくてはいけないと。
信じるようになれば、あなたがたは地球を救える。だが急がなければならない。

6-1 わたしは苦しみを喜ばない。喜ぶという者がいれば、そのひとはわたしを知らないのだ。
苦しみは、人間経験に不必要な要素だ。不必要であるだけでなく、賢明でないし、心地よくないし、身体にも悪い。
6-2 苦しみは出来事とは何の関係もない。出来事に対する反応のなかにあるだけだ。出来事はただ起こっているだけだ。それにあなたがたがどう感じるかは、別問題だ。
6-3 あなたがたはある出来事を意図的に創りだし、ある出来事を、意識的に引き寄せている。出来事によっては、大きな天災もこのなかに入るが、「運命」として片付けられるものもある。

6-4 思考が行動になれば救える。あらゆるところでおおぜいのひとたちが、環境を救うために何かをしなくてはいけないと信じるようになれば、地球を救える。だが、急がなければいけない。長いあいだに、すでに大きな被害が起こっている。世界を救うためには、非常に大きな姿勢の転換が必要だろう。

6-5 真のマスターは決して黙って苦しんでいるのではない。そう見えるだけだ。真のマスターが黙っているのは、苦しんでいないからだ。彼らは苦しみと呼ぶ状況を経験しているだけだ。
実践しているマスターが苦しみについて語らないのは、言葉の力をはっきりと理解しているからだ。したがって語らないことを選んでいるのだ。
誰でも、ときおり同じ事をしている。自分の気持ちしだいで頭痛が消えたり、歯の治療の痛みが減ったりした経験のない人はないだろう。


第7章
親として配偶者として、愛し愛されるものとして、
あなたの愛を相手にしばる接着剤にしてはならない。愛する者を世界に押し出しなさい。
彼らが自分自身を体験できるようにしなさい。それがほんとうの愛だ。

7-1 家庭人の道はつねに厳しい。最も厳しいかもしれない。自分ひとりなら「何もほしがらない」のは簡単だ。だが愛する者がいれば、彼らに最善を望むのは自然なことだ。
7-2 「魂のゲームをしている」とはどういうことか、はっきりさせよう。それは精神と身体と魂をあげて、神の姿をかたどり、神に似せて自己を創出するプロセスに没頭することだ。
それは一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬をゆるがせにしない最高の意識の活動である。毎瞬繰り返される選択と再選択である。創造し続けることである。意識的創造である。目的を持った創造である。これまで話し合ってきた創造の道具を使うこと、それもはっきりと意識して、最高の意図をもって使うことである。
7-3 親として、配偶者として、愛し愛されるものとして、あなたの愛を相手にしばる接着剤にしてはならない。そうではなく、まず引きつけ、次に転換させ、反発させる磁石にしなさい。そしないと、ひきつけられた者はあなたに執着しなければ生きられないと信じはじめる。これほど真実とかけ離れたことはない。これほど、他者にとって破滅的なことはない。
あなたの愛によって、愛する者を世界に押し出しなさい。そして、彼らが自分自身を充分に体験できるようにしむけなさい。それがほんとうの愛である。

第8章
人生に特別な相手が現れて自分が満たされる、というのは、非常にロマンテックだ。
だが、人間関係の目的は相手に満たしてもらうことでない。
「完全な自分」を分かち合う相手を持つことだ。

8-1 人間関係はいつでも課題だ。つねに創造すること。表現すること。自己の高い面、より大きな自分、素晴らしい自分を経験することを求められる。その経験をいちばん直接的に、力強く、純粋に実践できるのが人間関係という場だ。それどころか、人との関係無しには、その実践は不可能だ。
8-2 ほかの人間や場所、出来事との関係を通じてのみ、あなたは、個性ある実態として、他と区別しうる何者かとして宇宙に存在できる。他がなければあなたも無だということを覚えておきなさい。
自分以外の他との関係があるから、あなたは存在する。それが相対の世界と言うもので、それと対照的なのが絶対性の世界、私が存在する世界だ。
8-3 このことをはっきり理解すれば、そしてしっかりと把握すれば、すべての経験を、すべての人間的出会い、とりわけ個人的な人間関係をうれしいと思うようになる。
8-4 人間関係は、最も高い意味で建設的な事柄だから、経験はすべて、ほんとうの自分を創りあげるために活用できるし、活用すべきだし、現実に活用され続けているのだ。
8-5 起こった出来事に左右されるだけの人間であることもできるし、出来事に対してどう在りたいか、何をするかという決断を通じて、どんな人間になるかを選ぶこともできる。意識的な自己の創造は後者のほうだ。あとのほうの経験に、自己が実現される。
8-6 すべての関係を嬉しいもの、特別なもの、自分を創りあげる経験として取りなさい。そして、いま、どうありたいかを選びなさい。

8-9 愛情関係が失敗する時、その原因はそもそも間違った理由で関係をむすんだことにある。
ほとんどの人は、相手との関係で何を与えられるだろうかと考えるのでなく、何が得られるだろうかと考えて、関係を結ぶ。
8-10 人間関係の目的は、自分自身のどの部分を「明らかに」したいかを決定することであって、相手のどんな部分を把握し、捕まえておきたいかを決めることでない。
8-11 人間関係の目的は、ほんとうの自分は何者であるかを決め、ほんとうの自分になること、それである。
8-12 「相手に失望させたくない」ばかりに、相手はほんとうの自分らしくない努力をし、自分らしくない行動をしようとして、やがてそれに耐えられなくなる。相手は、あなたの期待を満たせなくなる。割り当てられた役割を演じられなくなる。そこで、恨みが生じる。怒りが湧き起こる。
相手はやがて、自分自身を救うため、真の自分を取り戻そうとし、ほんとうの自分らしく振舞うようになる。そうなると、あなたは相手がすっかり変わってしまったと言う。
8-13 人間関係の目的は、相手に満たしてもらうことでなく、ほんとうの自分という存在をまるごと分かち合う相手を持つことだ。
8-14 人間関係が神聖なのは、最も気高い自分をとらえて実現する経験ができる、つまり自分を創造する最大の機会を与えてくれるからだ。逆に相手の最も気高い部分をとらえて経験する、つまり他者の経験のための最大の機会だと考えると失敗する。
8-15 人間関係では、それぞれが自分のことを考えるべきだ。自分は何者か、何をするか、何をもっているか、自分は何を欲し、要求し、与えているか、自分は何を求め、創造し、経験しているか。そう考えれば、すべての人間関係はすばらしいものととなり、その目的に、そして関係を結んでいる人間にとっても大いに役立つだろう。
8-16 人間関係では、それぞれが他者について心をわずらわせるのではなく、ただただ自分について心をくだくべきだ。
これは奇妙な教えに聞こえるかもしれない。
マスターは、相手が何者で、何をし、何をもち、何を言い、何を欲し、何を要求しているかはどうでもいいことを知っている。相手が何を考え、期待し。計画しているかはどうでもいい。大事なのは、その関係のなかであなたは何者であるかだけである。
最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。
8-17 自分を愛していなければ、相手を愛することはできない。多くの人たちは、相手への愛情を通じて自分への愛情を求めるという過ちを犯している。もちろん、自分がそうしていると気づいていない。意識的ないとなみではない。精神の深いとことで起こっているだけだ。ひとは考える。「正しく相手を愛することさえできれば、相手はわたしを愛してくれるだろう。そうしたら、わたしは愛される人間になり、自分を愛することができる」と。
これを裏返せば、愛してくれる他者がいないから、自分を憎んでいる人が多い、ということだ。これはほんとうの「愛の病」だ。この病にかかると、じつは愛されているのに、それはどうでもよくなる。どんなに多くの人が愛を告白してくれても、みたされない。
第一に、かれらは相手を信じない。自分をあやつろうとしているのだ、何かを狙っているのだと考える。(ほんとうに自分を愛してくれるはずがあるだろうか?そんなはずはない。きっと間違いを犯しているのだ。何か期待していうのだろう!いったい何が欲しいのだ?そう考える。)
そして、相手を信じられないので、愛情を証明しろと迫りはじめる。相手は愛していることを証明しなければならなくなる。そのために、相手はほんとうの自分とは違うふるまいをしなければならなくなるかもしれない。
第二に、ようやく愛されていると信じたとしても、たちまち、いつまで愛してくれるだろうかと心配しはじめる。そこで、愛情をうなぎとめておくために、ほんとうの自分とは違うふるまいを始める。こうして人間関係のなかで二人とも自分を見失ってしまう。自分自身を発見することを期待して人間関係を結んだのに、かえって自分を失ってしまう。
8-18 人間関係のなかで自分を失うこと、人間関係が苦いものになる理由の大半がここにある。
パートナーになった二人は、一たす一は二より大きくなると期待したのに、二より小さくなってしまったことに気づく。ひとりでいたときよりも、自分が小さくなったと感じる。能力も小さくなれば、わくわくするような興奮も減り、魅力的でなくなり、喜びも満足も減ったと思う。

8-19 聖なる旅の途上にある聖なる魂として相手を見失うと、すべての人間関係の奥にある目的も理由も見えなくなってしまう。
あなたがたは発達進化し、自分自身になっていく存在である。そして、あなたがたはあらゆるものとの関係を活用して、何者かになるかを決定する。
8-20 その仕事のためにあなたは生まれてきた。それが、自分を創造する喜びである。自分を知る喜び、意識的に自分が望む自分になる喜びである。それが、意識的に自分自身になっていくということである。個人的な人間関係は、このプロセスの最も重要な要素だ。したがって個人的な関係は聖なる土壌である。他者とは何の関係もないが、しかし他者を巻きこむから、すべては他者とかかわってくる。
8-21 これが神聖なる二分法である。したがって「自己中心的な者に幸いあれ、なぜなら、彼らは神を知るからである」と言っても、決して極端な教えでない。自分自身の最も気高い部分を知るということ、そしてそこにとどまるということは、立派な人生の目的だ。
だから、あなたの最初の関係は、自分自身との関係である。まず自分自身を大切にし、慈しみ、愛することを学ばなければならない。
8-22 他者の価値を見抜くためには、まず自分に価値を見いださなければならない。他者を祝福すべき者として見るためには、まず自分を祝福すべき者として見なければならない。他者の神聖さ認めるには、まず自分自身が聖なる存在であることを知らなければならない。

8-23 いつかは傷つかなくなる日が来るだろう。その日、あなたは人間関係の真の意味、人間関係を結ぶ真の理由に気づき、真の人間関係を実現するだろう。
それを忘れているから、いまのような反応をするのだ。だが、それはそれでよろしい。それも成長の過程であり、発達進化の一部だから。人間関係というのは魂の仕事、偉大な理解、偉大な記憶だ。そのことを思い出さないかぎり、そして、自己創造の手段として人間関係をいかに活用するかを思い出さないかぎり、あなたはいまのレベルで努力しなければならない。いまの理解のレベル、意志のレベル、記憶のレベルで。
8-24 そこで、あなたが相手の在り方、言うこと、行動に傷つき、苦痛を感じたときには、どう反応すればいいか。まず、どう感じているかを自分にも相手にも正直に認めなさい。あなたがたの多くは正直に認めるのを怖がる。そうすると自分が「悪く見える」のではないかと思うからだ。だが、感じるのはどうすることもできない。苦痛を感じないわけにはいかない。
8-25 できることはひとつしかない。自分の感情を大事にすることだ。自分の感情を尊重することは、自分自身を尊重することだ。あなたがたは自分を愛するように隣人を愛さなければならない。だが、自分の感情を尊重できないで、どうして相手の感情を理解したり、尊重したりできるだろう?
相手との相互関係の中で、まず問いかけなければならないのは、自分は何者か、何者になりたいか、ということだ。
8-26 最初の感情が否定的な感情でも、何度でも必要なだけその感情を味わえば、いつかはそこから踏み出せる。怒りや逆上や嫌悪、憤怒を味わい、「仕返し」したいと思っている者も、いつかは「そんな自分になりたくない」と考えて否定的な感情を捨てることができるだろう。

8-27 マスターとは、そのような経験をさんざん積んだあげくに、最終的な選択が前もってわかるようになった人たちだ。マスターはほんとうの自分を実現することに人生を奉げているから、自分に似合わない感情を味わうことはない。
8-28 あなは何度でも自分自身を創造することができる。それどころか、あなたは毎日、自分自身を創造している。だが、いまの段階では、いつも同じ回答を出すとは限らない。環境や条件によって、ある日は。人間関係において忍耐強く愛情深く、親切である自分を選ぶだろう。次の日には怒ってみにくく悲しい自分になるだろう。
マスターとは、つねに同じ回答を出すひとたちだ。その回答とは最も気高い選択である。
8-29 被害を抑えるとか、できるだけ得をするという観点から人生を生きていると、人生の真の利益を失ってしまう。機会が失われる。チャンスを見逃す。そんな人生は、不安に駆りたてられて生きる人生だし、そんな人生を送るあなたは、ほんとうのあなたではない。
なぜなら、あなたは不安でなく愛だから。愛は何の保護も必要としないし、失われることもない。

8-30 「いま、愛なら何をするだろうか?」
ほかのどんな疑問も無縁であり、無意味であり、あなたの魂にとって重要でない。
8-31 さて、非常に微妙な解釈が必要なところにさしかかっている。愛に支えられた行動についての原則は、だいたい誤解されているからである。そしてその誤解が人生の恨みや怒りを誘い、その恨みや怒りのゆえに、おおぜいが自己実現と成長の道から離れたままでいるからである。
8-32 だが、最も気高い選択とは、あなた自身に最高の善をもたらすものである。
この言葉の謎は、自分に与えられる最高の善とは何かを考えるとき、少しは解けてくるだろう。そして至高の選択が行われるとき、謎は解け、輪は完結し、あなたにとっての最高の善が他者にとっても最高の善になる。
8-33 このことを理解するには、一生涯かかるかもしれない。あるいはもっと多くの生涯が必要かもしれない。なぜなら、この真実の中心にはさらに大きな真実があるからである。あなたが自分のためにすることは、他者のためにすることである。他者のためにすることは、自分のためにすることである。
そして、それがなにかといえば・・・・・
あなたのほかには何もないから。
8-34 「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う。わたしの兄弟の最も小さなひとりに対してしたのは、このわたしに対してしたのである。」
だが、それは、大半のひとたちにとって最も難解で、現実にはほとんど応用されない真理にとどまっている。ところが、これこそがあらゆる「難解な真理」の中で、いちばん現実に応用しやすい真実なのである。
人間関係の中で、このことを覚えていることが重要だ。そうでないと、関係は非常に難しくなるだろう。
8-35 古い理解に基づいて、ひとは、善意でしかも信仰心のあついひとは、人間関係の中で、いちばん人のためになると思うことをしてきた。悲しいことに、たいていはその結果として虐待されつづけてきた。あるいは酷使され続けてきた。うまくいかない人間関係ばかりが続いた。
他者を基準として、「正しいことをしよう」と努力した人、すぐに赦し、同情を示し、ある種の問題やふるまいを見過ごし続けてきた人たちは、結局神を恨み、怒り、信じなくなった。正義の神なら、例え愛の名においてであっても、そんな際限のない苦しみと喜びの欠如と犠牲を要求し続けるだろうか。
神は要求していない。それが答えである。
神は、自分を第一に考えることを提案し、勧めている。
8-36 気高い意味で自分自身を第一に考えるなら、決して神意にかなわない行動をするはずがない。
したがって、自分のために最善のことをしようとして、神意にかなわない行動になるなら、問題は、自分を第一にしたことでなくて、何が最善かを誤解したことにある。
8-37 実際問題として、虐待されている状況で自分にとって最善なことは何かと考えれば、少なくとその虐待をやめさせなければならない。虐待をやめさせることはあなたにとっても、虐待する側にとっても良いことである。虐待を続けさせておけば、虐待する側までが虐待されることになるからだ。
8-38 愛情のある態度をとるということは、必ずしも相手の好きにさせるということではない。
子供を持った両親はすぐに悟る。おとながおとなに対する場合、国が国に対する場合には、そう早く悟れない。
だが横暴な独裁者を栄えさせてはいけないし、横暴はやめさせなくてはいけない。自分への愛、独裁者への愛がそれを要求する。
8-39 時には、人間は真の人間らしさを表す偉大な宣言として、戦争を嫌悪する人間として、戦争へ行かなければならない。
ときには、ほんとうの自分であるために、ほんとうの自分を放棄しなければならない。

したがって、平和な人間としての自分を「まっとうする」ために、戦争に加わらない自分という考え方を放棄しなければならないかもしれない。歴史は人間にそんな決意を求めてきた。
8-40 人生には、ほんとうの自分でない面を示すことで、ほんとうの自分を証明することを要求されることが何度かある。

8-41 悪に対する愛ある行為とは何かを真剣に考えれば、「悪」という言葉と、これにまつわる価値判断を無視できなくなるからだ。じつは、悪というものはなく、ただ客観的な現象と経験があるだけだ。しかし、人生の目的からして、あなたは増えるいっぽうの現象のなかから、悪と呼ぶ現象を選びださなければならなくなる。そうしないとあなたは自分自身もほかのことも善と呼ぶことができず、自分自身を知って創造することができないからである。
8-42 あなたは何を悪と呼び、何を善と呼ぶかで自分自身を定義する。
最大の悪は、どんなものも悪ではないと宣言することである。
8-43 この人生という相対性の世界はすべてがほかとの関係でのみ存在しうる。人間関係の目的と機能も全く同じである。あなた自身を発見し、あなた自身を定義し、あなたが選択するならば、ほんとうの自分自身をつねに創造しなおすための経験の場を提供すること、それが人間関係の目的であり、機能である。
8-44 悟りへの途上においては、傷つき、被害を受け、喪失することをみな経験の一部として認め、それとの関係でほんとうの自分とは何かを決定すればいい。
8-45 あなたは人が考えたり、言ったり、したりしたことに傷つくだろう。いつか、傷つかない日がくるまでは、しかたがない。その日に最も早く到達する方法は、完全に正直になることだ。自分がどう感じているかをはっきりさせ、認め、口にすることである。あなたの真実を語りなさい。優しく、しかし包みかくさず真実を語りなさい。あなたが真実だと感じるように生きなさい。穏やかに、しかし一貫してあなたが真実だと感ずるように生きなさい。経験によって新たなことがわかったなら、すなおにすばやく変更しなさい。
8-46 まともな精神をもった者なら誰でも、まして神なら、人間関係で傷ついても、「受け流せ、平気でいろ」などとは言わない。今傷ついているなら、平気でいようとしても遅い。あなたの仕事は、傷ついたということが何を意味するかを考え、それを示すことだ。そうすることによって、あなたはこうありたいと思う自分を選び、その自分になるのだから。

8-47 他との関係で、あなたには何の義務もない。ただ、機会があるだけだ。
義務でなく機会、それが宗教の要石であり、本質的ないのちの基盤がある。
そこを逆に考えているかぎり、いつまでたっても肝心なことがわからないだろう。
8-48 あなたとすべてのものとの関係は、魂の仕事を行うための完璧な道具として創り出された。だからこそ、人間関係はすべて聖なる地盤なのだ。だからこそ、個人的な関係はどれも神聖なのだ。
8-49 他との関係で、決して義務感から行動してはいけない。他との関係はほんとうの自分を決定し、ほんとうの自分になるための栄えあるチャンスを与えてくれる。何をするにしても、その意識を出発点にしなさい。
8-50 あなたは、ひとつの関係を続けることが成功だと思っているようだ。人間関係が長続きすれば、うまくいったのだと勘違いしないようにしなさい。地上でのあなたの務めは、どれほど長く人間関係を維持できるかを試すことでなく、ほんとうの自分とは何かを決定し、ほんとうの自分を経験することであるのを忘れてはいかない。
決して、人間関係は短いほうがいいというのではない。だが、長ければいいわけでもない。
ただし、このことだけは言っておくべきだろう。
長い人間関係はお互いの成長にとって、お互いの経験にとって、お互いの充足にとってすばらしい機会だし、それだけすばらしい成果がある。

8-51 お互いが、人間関係の目的は義務でなく機会を創り出すことだと考えれば、成長し、自分を充分に表現し、人生をできるだけ高い位置に引き上げ、自分自身にいだく間違った考えや卑小な考えを癒し、最後には二人の魂の合体を通じて、神とひとつになるための機会を創り出すことだと確信すれば、人間関係はとてもよくなる。正しい一歩を踏み出すことができる。非常にそばらしい出発点になる。
8-52 難題に挑戦するなら、困難なときもあるだろうと覚悟する必要がある。
難題や困難を避けようとしてはいけない。難題や困難を歓迎しなさい。心から歓迎しなさい。神から偉大な贈り物だと思いなさい。他との関係の中で、そして人生でするべきことができる栄えある機会だと思うことだ。
困難にぶっつかったとき、パートナーを敵だの対立相手だのと考えないように努力しなさい。どんな人も、どんなことも敵だと思わないこと、それどころか問題だとも思わないことだ。すべての問題をチャンスだと捉える力を養いなさい。
8-53 地平線を広げなさい。視界の奥行きを広げなさい。自分の中に、それまで見ていた以上のものを見ることだ。
ひとがあなたに見せる以上のものを見ても、決して人間関係を傷つけることはならない。

なぜなら、ほんとうは見える以上のものがあるからだ。ずっと多くのものがある。人がそれを見せないのは、恐れているからだ。あなたがもっと多くを見ているのに気づけば、相手は安心して、あなたがすでに見ているものを向こうから見せてくれるだろう。
8-54 わたしたちが相手に見るものを、相手は自分自身に見る。わたしたちが見るヴィジョンが大きくなればなるほど、相手は進んでそのヴィジョンを自分のなかに発見し、わたしたちにも見せてくれる。
祝福される関係とは、そんなふうに働くものではないか?それが癒しのプロセスではないか。相手が持っている、彼ら自身についての間違った考えをすべて「放り出して」いいのだと思わせてやるプロセスではないか。
8-55 それには二つの方法がある。ひとにほんとうの自分を思い出させるか、自分でほんとうの自分を思い出すか。いつもほんとうの自分を思い出してみせていれば、いつかは相手もほんとうの自分を思い出す。ひとはあなたのなかに自分自身を見るから。
8-56 昔、ある男が気づいて見ると、本を書くのに毎週、何時間も費やしていた。くる日のくる日も、彼はペンを持って原稿用紙に向かい、時には真夜中までかかって新しいインスピレーションのひとつひとつをとらえようと努力していた。やがて誰かが何をしているのかと男に尋ねた。
「ああ、わたしは神との長い長い対話を書き記してるんです」と男は答えた。
「それは、たいへんけっこうだ」と相手は、もっともらしく答えた。「だが、ほんとうは誰も神が何を言うか知らないんだよ」
「そうかい」と男は微笑んだ。「じゃ、わたしがこの本を書き上げるまでまっててくれないか」。


第9章
「ほんとうの自分であること」はたやすいと思っているかもしれない。
だが、それは人生で一番の難題だ。決して実現できないかもしれない。
ほんとうにそれができるひとは、ごく少ないからだ。

9-1 あなたは、「ほんとうの自分であること」はたやすいと思っているかもしれない。だが、それは人生で一番の難題だ。それどころか、決して実現できないかもしれない。ほんとうにそれができるひとは、ごく少ないからだ。まして一度の生涯で成功するひとはほとんどいない。多くの生涯をかけてもできないくらいなのだから。
9-2 あなたは何度も生涯を送っている。
9-3 第一に、不安がなくなる。失敗はありえないということがはっきりする。失敗しないと、確認できる。必要なだけのチャンスがいくらでも与えられることがわかる。あなたは何度でもこの世に戻ってこられる。あなたがつぎの段階に到達できるなら、つぎのレベルまで発達するなら、そうしなければならなかったのではなく、自分でそう望んだからだ。
あなたは、こうしなければならないということは何もない!今のレベルで人生を楽しんでいるなら、これが自分にとって最終段階だと思うなら、この経験を何度でも繰り返せばいい!実際、あなたは何度の何度も繰り返してきた。自分が望んだからだ!あなたはこの人生のドラマを愛している。苦痛を愛している。秘密を、知らないということを、サスペンスを愛している!あなたはそんなすべてを愛している!だから、いまのあなたはこうしてこの世にいるのだ。
9-4 重要なことであればあるほど、誰か別の人の考えに従いがちだ。
そう考えると、あなたがたが人生のある領域をコントロールする力を完全に失ってしまった理由も、人生経験のなかでぶつかる疑問も理解できる。
その領域や疑問には、魂にとってとても重要な課題が含まれている。神の本質、真のモラルとは何か、ほんとうの現実とは何か、戦争や医療、中絶、安楽死をめぐる生と死の問題、個人の価値観やその構造、判断の実体などだ。こういう問題のほとんどを、あなたがたは放棄し、他人まかせにしている。
自分で判断をくだしたくないのだ。
9-5 自分で考え、価値判断をするとき、あなたは純粋に創造の場に置かれる。なぜなら、さまざまなことについて「わたしにはわからない。わからないのだ」と言うほかないだろうから。それでも、決定しなければならない。選択しなければならない。自分で考えて選択しなければならない。
9-6 過去の知識にたよらない決断、そういう選択、それが純粋な創造と呼ばれるものである。そして人は、そうした決定をしているとき、自分自身を新たに創り出していることに気づく。
9-7 これまであなたは、経験の結果として人生を生きてきた。いま、経験の原因になってみてはどうかと誘われている、それが、意識的にいきるということ、目を見開いて進むということだ。
9-10 たくさん思い出せば思い出すほど、たくさんのことを経験することができて、たくさんのことを知ることができる。そして、たくさんのことを知れば知るほど、たくさんのことを思い出す。循環しているんだ。だから、ますます容易になり、ますます良くなり、ますます楽しくなっていく。
9-11 あなたはすべてを経験させてもらえる。涙も、楽しさも、喜びも、昂揚も、激しい憂鬱も、勝利も敗北も、引き分けも経験できる。
これ以上何がある?
9-12 それでは、成長をつづけなさい。わが息子よ。ほんとうの自分になろうとしつづけなさい。そして、つぎの段階では、どんな気高い在り方ができるかを考えなさい。それに向かって努力を続けなさい。前進しなさい!それがわたしたちの仕事、神の仕事だ。だから、続けなさい!


第10章
わたしもあなたを愛している。

10-1 知っている。そして、わたしもあなたを愛している。


第11章
あなたには、すべてについての根となる思考がある。
金が足りない、時間が足りない、愛が、水が、食べ物が、世界に同情が足りない。
良いものはすべて足りないという集合的な意識が、いまの世界を創造している。

11-1 あなたは、金は悪いものだと思っている。また神は善いものだと思っている。それはよろしい!
しかし、あなたの思考のなかでは、神と金は混じりあわない。
するとおもしろいことになる。なぜなら、良いことをして金を得ることがむずかしくなるからだ。
つまり、あなたにとっては、「良い」と判断することは金銭的な価値が低いことになる。「より良い」ことは、もっと金銭的な価値が少ないというわけだ。
そう考えているのは、あなただけではない。あなたがたの社会全体がそう考えている。
11-2 根になる考え、つまり支えになっている考えをいちばん速く変える方法は、「思考−言葉−行為」というプログラムを逆転させることだ。
11-3 まず、こうありたいと思う考えにもとづいて行動しなさい。それから、こうありたいと思う考えを言葉にしなさい。それを何度も実行していれば、精神の訓練ができて、新しい考え方ができるようになる。
11-4 あなたの心は他への反応でしかない思考で満ちている。他者の経験から生じた考えだ。自分自身のデータにもとづいた考えはごく少ないし、こうありたいと言う自分の希望にもとづいた考えはさらに少ない。
11-5 あなたの金に対する考え方の根本にある思考がいい例だ。金は「悪いものだ」と言う考えは、あなたの経験、「金があるのはすばらしいことだ!」と真っ向から対立する。そこで、あなたは自分をごまかし、根にある考えを正当化するために、経験のほうが間違っていると自分をだまさなければならなくなる。
11-6 ところで、あなたは、金に関して根となる思考がもうひとつある。
足りないという考えだ。じつは、その考え方はすべてについての根である。金が足りない。時間が足りない。愛が足りない。食べ物が、水が、世界に同情が足りない・・・・良いものはすべて足りない。
この「足りない」という集合的な意識がいまのような世界を創りあげている。

11-7 あなたは、自分がこうだと思う人間になるからだ。否定的な考えをもつと、悪循環が起こる。その循環を断ち切る方法を探さなければならない。
あなたの現在の経験の多くは、今までの考え方がもとになっている。考えが経験につながり、経験が考えにつながり、それがまた経験につながる。この循環は、支えとなっている考えが楽しいものであれば、つねに喜びを生む。支えとなっている考えがひどいものだと、地獄を生み出すことになる。秘訣は、支えとなっている考えを変えることだ。

11-8 まずしなければならないのは、思考−言葉−行為というパラダイムを逆転させることだ。”行動する前に考えよ”という古い格言を知っているか?
それは忘れなさい。根になる考えを変えたければ、「考える前」に行動しなければいけない。
根となっている考え方を変えたいと思うなら、新しい考え方に従って行動しなさい。だが急いで行動しなくてはいけない。そうしないと、気づいたときには精神が邪魔をして新しい考えを殺してしまう。文字通り、殺してしまうのだ。新しい真実は、あなたが知らないうちに死んでしまう。
だから、機会があったら急いで行動しなさい。それを何度も繰り返せば、やがてあなたの精神は新しい考えを身につけるだろう。それがあなたの新しい考えになるだろう。
11-9 あなたの精神はいま、古い考えでいっぱいだ。古いだけでなく、ほとんど誰か別の人の古い考えだ。だから、いまこそ、あなたの考えのいくつかを変えることが大切だ。それが、発達と言うことなのだから。


第12章
ほんとうにしたいことを、どんどんしなさい!ほかのことをしてはいけない。
もう、あんまり時間はない。生活のためにしたくもないことをして
人生の時間をむだにしようなどと、どうして考えるのか。

12-1 ほんとうに好きなことをして暮らしている人は、何が何でもそうしたいとこだわっている人だ。彼らはあきらめない。決して、譲歩しない。好きなことができない人生なんてあってはならないと思っている。
だが、ここでべつの要素も考えなければならない。たいていの人がライフワークについて考えるとき、欠けている要素だ。
12-2 何かで「在ること」と「行動すること」には違いがあり、たいていのひとは後者に力点をおいている。
12-3 「いい」とか「いけない」ということではない。あなたが何を選ぶか、どうすればそれが実現するかというだけだ。あなたが平和と喜びと愛を選ぶなら、行動を通じてでは、獲得できないだろう。あなが幸福と満足を選ぶなら、行動と言う道を通じては、手に入れられないだろう。再び神と一体になることを選ぶなら、して最高の知識、深い理解、終りのない共感、全面的な目覚め、限りない充足を選ぶのなら、行動では達成できないだろう。
12-4 「行動すること」は身体の働きである。「在ること」は魂の働きである。身体はつねに何かをしている。
毎日、毎分、何かをしようとしている。
身体は魂に促されて何かをするか、魂に反して何かをする。人生の質はこのバランスによって決まる。
魂は永遠に在るものだ。身体が何かをしようとも、魂は在るがままに存在する。
あなたは、人生とは「行動すること」と考えているなら、自分を理解していない。
12-5 あなたの魂にとっては、暮らしのために何をするかなどはどうでもいい。人生が終わるとき、あなたもどうでもいいと思うだろう。魂にとっては、どんな行動をするかではなく、その間にどんなふうに在るかだけが大切だ。魂が追求しているのは在り方であって、なにをしているかではない。
12-6 そう、わたしだ。あなたの魂はわたしであり、それを知っている。魂はそれを経験しようと努めている。経験するには何もしないのがいちばんいいということも知っている。何もせずにただ在ることだ。
12-7 さて、同じような資質をもった二人なのに、ひとりは成功し、ひとりは失敗したという例だが、それは「していること」のせいでなく「在り方」のせいだ。
ひとりは開放的で、親しみ深くて、こまやかで、親切で、思いやりがあって、陽気で、自信があって、仕事を楽しんでいる。もう一方は閉鎖的で、よそよそしくて、冷たくて、不親切で、陰気で、自分がしていることを嫌っている。
12-8 さて、あなたがより高い在り方を選ぶとしよう。あなたは善、慈悲、同情、理解、赦し、愛を選ぶとしよう。神性を選ぶとしよう。そうしたら、どんな経験をするか。それを教えよう。
12-9 存在は存在を引きつけ、経験を生む。
あなたは身体によって何かを生むために、この地上にいるのではない。魂によって何かを生むために、この地上にいる。身体は魂の道具にすぎない。身体を動かす動力はあなたの精神だ。だから、あなたが地上にもっているのは、魂の欲求に従って創造するための動力機械なのだ。
12-10 広い意味では、魂の欲求は神であることだ。だが、魂が求めているこの「わたし」には非常に複雑で、非常にたくさんの層、感覚、面がある。わたしには100万もの側面が、10億もの側面がある。わかるだろうか?冒涜的な面と深い面、小さな面と大きな面、うつろな面と神聖な面、おぞましい面と神々しい面とがある。わかるだろうか。
12-11 そのとおり。わたしはアルファでありオメガだ。ただの言葉でも、気の効いた概念でもない。それが真実だ。そこで、「わたし」であることを求める魂には、壮大な仕事がまっている。「在り方」の膨大なメニューの中から選ばなければならない。いま、この瞬間も魂はそれをしている。
12-12 そう、そして、正しい完璧な条件を作り、その条件のなかで経験を創り出している。だから、あなたに起こること、あるいはあなたを通して起こること、自分の最高の善のためにならないことは何もない、というのは真実だ。

12-13 別の言い方をすれば、魂は、計画どおりの経験ができるようにと、正しい完璧な機会にあなたを導く。実際に何を経験するかは、あなたしだいだ。あなたは計画したことを経験するかもしれないし、べつのことを経験するかもしれない。それはあなたが何を選んだかによる。
12-14 最も大きな意味で、あなたの本質的ないのいのちは、自分の望みに目覚め、それと喜ばしい一体化をするときを求めている。だが、いのちは決して、現実のあなたの意識的、肉体的な部分に自分の欲求を押し付けることはない。
「父」は「息子」に自分の意志を押しつけはしない。それは、「父」の本質と異なるものであり、したがって文字どおり不可能だからだ。
「聖霊」は自らの意志をあなたの魂に押しつけはしない。それは聖霊の本質と異なるものであり、したがって、文字どおり不可能だからだ。
12-15 不可能はそこで終わる。精神は始終意志を身体に押付けようとするし、実際に押付ける。同じく、身体は始終精神を支配しようとし、支配に成功することが多い。だが、身体と精神が一緒になって魂を支配しようとする必要はない。魂には何かしなければならないという必要性がなく、身体と精神がしたいようにさせておく。
それに魂は、他にどうすることも出来ない。自分という存在を創造するため、そして自分が何者であるかを知るためには、自発的な意志による行為を通すほかなく、無意識に従属していたのでは不可能だからだ。
12-16 従属は創造でないから、救済にはつながらない。
従属は反応だが、創造は純粋な選択、外から支持されたり、求められたりしない選択だからだ。
純粋な選択は、たった今も最高の考えを純粋に創造することを通じて、救済を生んでいる。

12-17 魂の働きとは、その欲求を示唆することであって、押しつけることでない。
精神の働きとは、選択肢の中から選択することだ。
身体の働きとは、選択を行動に移すことだ。
身体、精神、魂が一体となって調和し、ともに創造するとき、神が肉体化する。
そのとき魂は自らの体験の中で自らを知る。

そして、それを天は喜ぶ。
12-18 この瞬間にも、あなたの魂は、あなたがほんとうの自分を知るために存在し、行動し、所有する機会を創造している。あなたの魂が、いま読んでいるこの言葉にあなたを導いたのだ。以前にもあなたを知恵を真実の言葉で導いてきたように。

12-19 あなたは身体、精神、本質的ないのちである霊魂という三つの部分からなる存在だ。地上に生きている間だけではなく、いつも三つの部分からなる存在だ。
死ぬときには、身体も精神も捨てられる。という説を立てる人たちがいる。だが、身体と精神は捨てられない。身体は形を変え、最も濃厚な部分は捨てられるが、外殻はつねに維持されている。精神もあなたとともに行き、いのちと身体と一体となって、三つの次元、三つの、面をもつエネルギーのかたまりになる。
12-20 地上の人生に戻ることを選ぶと、あなたの聖なる自己は再び絶対的な次元を離れて身体、精神、本質的ないのちと呼ばれる三つに分かれる。あなたもほんとうはひとつのエネルギーだが、はっきりと区別される三つの性格をもっているのだ。
12-21 この地上で新しい物理的な身体に住まおうとすると、あなたのエーテル状の身体の振動数が低下し、目に見えないほどの急速な振動から、物質を生じてかたまりになる速度へと落ちる。この「実体」のある物質は、純粋な思考によって創られる。あなたの精神の働きの結果だ。三つの部分から出来ている存在のなかの高度な精神という面の働きだ。
物質はこの異なる無数のエネルギーがひとつの巨大なかたまりへと凝固したもので、実はあなたの精神が物質を動かす主だ。
12-22 この小さなエネルギーの単位がそれぞれのエネルギーを使い果たすと、身体はそれを捨て、精神が新しいエネルギーを創り出す。精神は「自分とは何者か?」と考え続けることで、そのエネルギーを創っている。言ってみれば、エーテル状の身体はその思考を「とらえ」、エネルギー単位の振動数を低下させ、「結晶化」させ物質にする。新しいあなたという物質である。あなたの身体のすべての細胞は、数年毎に入れ替わる。あなたは、文字どおり、数年前とは別人なのだ。
12-23 魂はこの全ドラマを、毎年、毎月、毎日・・・・毎秒見つめながら、いつもあなたについての真実を持ち続けている。魂は決して青写真を忘れない。元の設計図を、最初の意図を、創造的な思考を忘れない。魂の仕事は、あなたにその青写真を思い出させること、ほんとうの自分を思い起こさせること、そして、こうありたいと思う自分を選ばせることである。こうして、創造と経験の循環、イメージとその実現、知ることと道へ向かっての成長が続く。いまも、そしていつまでも。
12-24 来世には審判はないが、自分がこの世で考えたり、行ったりしたすべてをもう一度見直し、自分は何者か、何者になりたいかということに照らしあわせて考えたら、もう一度同じことをするかどうかを判断する機会があるだろう。
12-25 この世の後にあなたの生命の起こることは、あまりにもとっぴで、あなたが理解できる言葉では語れない。なぜなら、その経験は別の次元のもので、言葉という大きな制約がある道具での表現を受付けないからだ。だから、苦痛や恐怖や審判なしにもう一度、現在の生を見直す機会を与えられる、あなたは現世の経験をどう感じるかを判断し、それをもとにどこへ行きたいかを決める、と言えば、それで充分だろう。
12-26 あなたがたの多くは、この世へ戻ってこようと決意する。現世の自分をどう判断し、どう選択したかをもとに、この高密度での相対的な世界をもう一度経験するチャンスを得ようとする。
12-27 また、少数の者は、それとはべつの使命をもって戻る。他の人をこの高密度の絶対的な世界から連れ出すためにだけ戻ってくるのだ。地上にはつねに、そういう選択をしたひとたちがいる。その人たちは、すぐにわかる。彼らの仕事は完成している。彼らが地上に戻ってきたのは、他の人たちを助けるためだ。それが彼らの喜びなのだ。それが彼らを昂揚させるのだ。彼らは奉仕することだけを目指している。
12-28 あなたがほんとうにしたいことを、どんどんしなさい!ほかのことをしてはいけない。もう、あんまり時間はない。生活のためにしたくもないことをして人生の時間をむだにしようなどと、どうして考えるのか。
12-29 あなた方には楽しむ権利がある。子供があるとなかろうと、配偶者がいようといまいと、楽しみを求めなさい。楽しみを見出しなさい。金があってもなくても、楽しい家庭はできる。もし、家族が楽しくなくて、あなたを捨てて出て行こうとしたら、家族が自らの楽しみを求められるよう、愛情をもって手放してやりなさい。


第13章
ほとんどの人は、全く無意識に病気を創り出している。
なのに、病気になったとき、よそから何かが降ってきたように感じる。
それは単に健康の問題でなく、人生を無意識に生きているからだ。

13-1 すべての病気は自分で創り出している。
13-2 ほとんどの人が、人生を無意識に生きているからだ。
人はタバコを吸っていながら、どうしてガンになったのかといぶかる。
人は動物性食品や脂肪をとっておきながら、どうして動脈硬化になったのかといぶかる。
人は一生怒り続けながら、どうして心筋梗塞になったのかといぶかる。
人は、信じられないストレスに耐えて、過酷な競争をしながら、どうして発作がおこったのかといぶかる。
13-3 心配というのは、最悪の精神活動のひとつだ。非常に自己破壊的な憎悪のつぎに悪い。心配は何の役にもたたない。精神的エネルギーの浪費だ。それどころか、身体を傷つける生物化学的反応のもとで、消化不良から冠動脈血栓にいたるまで、さまざまな障害を引き起こす。
13-4 憎悪はいちばん破壊的な精神状態である。憎悪は身体を毒する。そうなると、元に戻すことは出来ない。
13-5 不安は、あなたのあらゆるものと対立する。あなたの精神的、肉体的健康に悪影響を及ぼす。不安は増幅された心配である。
13-6 心配、憎悪、不安は、さらに、これから生まれる気がかり、苦々しさ、短気、貪欲、不親切、批判、非難などもすべて、細胞レベルで身体を攻撃する。そうなったら健康を保つことは不可能だ。
同じく、うぬぼれ、わがまま、欲張りも肉体的な病気につながる。あるいは、快適さを損なう。

13-7 病を癒す癒し手は、そんな信念をもっている。神の世界の知への境界を越えるのはその信念だ。癒し手は、たった今のあなたが、欠陥のない完璧な存在であるべきことを知っている。その知はまた思考でもある。非常に強力な思考だ。山をも動かす力がある。増してや、あなたの身体の分子などは簡単に動かす。だから癒し手は、時には遠くからでも癒すことができる。
13-8 「健康上の問題を解決」するには、考え方の問題を解決すればいい。既にかかったものでも癒すことができるし、新しい大きな問題が生じるのを予防することもできる。要は考え方を変えればいいのだ。

13-9 魂が思いをいだき、精神が創造し、身体が体験する。これで循環は完結する。魂は自らの体験の中で自分を知る。経験したことが気に入らなければ、また何らかの理由でべつの経験をしたければ、新しい自己の経験について思いをいだき、文字どおり精神を入れ替えればいい。
13-10 自己の三つの面は完全に平等だ。それぞれに働きがあるが、どの働きも他より大きくはないし、他の働きより上位にあるものもない。すべて同等だし、関連しあっている。
13-11 思いをいだき、創造し、体験する。あなたは思いをいだいたことを創造し、創造したことを体験し、体験はまた思いになる。
だから、身体が何かを体験するようにしむければ、まもなく魂がそれを感じ、それが豊かだと言う新しい考えを生んで、あなたの精神が新しい考え方をするようになる、と言ったのだ。新しい考え方からさらに経験が生まれ、身体は新しい現実を永遠の在り方として生きるようになる。
13-12 あなたはわたしの身体である。
あなたの身体は精神と魂のためにあり、あなたはわたしの精神と魂のためにある。したがってわたしはすべてを、あなたを通して経験する。 



第14章
どこでもわたしの声を聞きなさい。あなたの世界に目を開きなさい。
わたしの答えは、すでに発表されている記事、製作中の映画、
愛する人の口から出かかっている言葉、これから知りあう友人の心のなかにある。

14-1 もちろん、セックスはいいことだ。もう一度言うが、あなたがたにゲームをさせたくなければ、玩具を与えるはずがない。あなたは遊ばせたくない玩具を子供に与えるだろうか。
セックスで遊びなさい。遊ぶがいい。非常に面白い遊びだ。肉体的経験ということでは、身体によって得られる最もおもしろい遊びだ。
14-2 だが、頼むから性的な無邪気さや喜び、純粋な面白さ、楽しさ、セックスを誤用することで破壊しないでもらいたい。力を得るため、隠れた目的のためにセックスを使ってはいけない。自我を満足させるためや支配するために使ってはいけない。純粋な喜びと高度なエクスタシーを与え、分け合うという目的以外に使ってはいけない。
14-3 セックスを支えるエネルギーは、人生を支えている。それが生命だ。互いに感じる魅力、愛よってひとつになりたいという激しい切実な欲求は、生きているものすべての本質的なダイナミズムだ。わたしは、それをすべ組み込んだ。「存在するすべて」に生まれつき備わった、本質的なものだ。
14-4 時のはじめから、すべての人間は愛し、愛されたいと望んできた。時のはじめから、人は愛し愛されることを可能にするため、力の限りあらゆることをしてきた。セックスはおおいなる愛の表現である。他者への愛、自分への愛、生命への愛の表現だ。だから、あなたがたはセックスを愛すべきだ。
14-5 わたしはあなたがたに恥ずべきことは何も与えていない。ましてあなたの身体や人体の機能をはずかしがることはない。身体や身体の機能を隠す必要はない。身体や身体の機能への愛も、互いへの愛も隠す必要はない。

14-6 わたしは、この本だけを通して語っているのではない。あなたの魂の真実のなかに、わたしの声を聴きなさい。正直な気持ちのなかに、わたしの声を聴きなさい。精神の静けさのなかに、わたしの声を聴きなさい。
14-7 どこででも、わたしの声を聴きなさい。質問があるときはいつでも、わたしがすでに答えているのだと思いなさい。そして、あなたの世界に目を開きなさい。わたしの答えはすでに発表されている記事の中にあるかもしれない。これから聞く説教のなかにあるかもしれない。製作中の映画のなかにあるかもしれない。昨日、作曲されたばかりの歌の中にあるかもしれない。愛する人の口からでかかっている言葉のなかにあるかもしれない。知り合おうとしている新しい友人の心のなかにあるかもしれない。
14-8 わたしの真実は風のささやき、小川のせせらぎ、稲光、雨音だ。
土の感触、百合の香り、太陽の暖かさ、月の満ち欠けだ。

14-9 わたしはあなたから離れない。離れることはできない。あなたはわたしの創造物、作品、娘であり息子、わたしの目的であり、そして、わたしの・・・・
自己だから。
14-10 だから、いつでもどこでも、神の平安から切り離されたら、わたしを呼びなさい。
わたしは、そこにいるだろう。
真実と
光と
愛をたずさえて、